📚Q&A 本尊の「?」に答えます(同朋_2023-01)
Q1 本尊ってなんですか?
[A]
人間が生きていくうえで敬うべき真実が本尊です。
人間が真実に沿って生きていく根本として尊崇する仏さまを「本尊」といいます。「本」とは根本の意味、「尊」とは尊び崇めることを意味します。私たちの敬いの対象である真実を形にあらわしたものが本尊なのです。
本尊は、美術品として展示されているのではありません。実は少しだけ前傾姿勢をされていて、私たちが合掌して仰ぎ見るときに、目線が合う姿勢をとっておられます。私たちがこちらから一方的に眺めるというのではなく、真実を仰ぎ見ることで、真実に出会ってほしいという願いが本尊にはあらわされているのです。
浄土真宗では、真実を体現して、私たちを救おうとしておられる阿弥陀仏を本尊として仰ぎます。本尊を安置するお堂がお寺における本堂であり、本尊の仏さまのお名前によって、真宗本廟(東本願寺)では阿弥陀堂ともいいます。また本尊は、各家庭のお内仏(お仏壇)の中央にも安置されています。
Q2 阿弥陀仏って、どんな仏さまですか?
[A]
お釈迦さまが説かれた、真実そのもののお姿が阿弥陀仏です。
阿弥陀仏とは、どのような仏さまなのか、お釈迦さまがお説きになられた『仏説無量寿経』に示されています。『仏説無量寿経』の「仏説」「経」とは共に、お釈迦さまが説かれた教えということを意味します。「無量寿」とは、無量寿仏、つまり阿弥陀仏を意味しています。そもそも「阿弥陀」とは、古代インドの「アミターユス」(無量寿)、また「アミターバ」(無量光)という言葉の発音を漢字であらわしたものです。「仏」も「ブッダ」(真実に目覚めた方)の発音に漢字をあてた言葉です。
阿弥陀仏には、どんな時代の人々をも救いたいという慈悲があり、それゆえに寿命に限りがなく、無量寿仏ともお呼びします。また、阿弥陀仏の智慧のひかり輝きは果てしなくすぐれており、無量光仏ともお呼びするのです。「無量寿」「無量光」の「無量」とは、量が無いという意味ではなく、量という言葉であらわされる限界と無関係であるという意味です。つまり、阿弥陀仏の慈悲と智慧は量ることができない、限りないということなのです。
お釈迦さまは、仏教の真実が永遠であること、普遍であることを私たちに知らせようとして、阿弥陀仏をお説きになられたのでしょう。阿弥陀仏とは永遠普遍である真実を体現する仏さまなのです。永遠普遍の真実と聞いても、私たちには捉えどころがないように思われますが、そもそもお釈迦さまが説かれる真実は人間の思いを超えています。私たちは欲望にまみれた眼で、真実ではないものを真実であるかのように錯覚していますが、お釈迦さまは欲望を超え離れて、澄み切った眼で真実をご覧になっています。その真実の具体的な姿を阿弥陀仏として、お説きになったのです。
『仏説無量寿経』によりますと、私たちの思いでは捉えきれないほど遠い昔に、法蔵菩薩という修行者がおられたのです。法蔵菩薩は世自在王仏という仏さまの弟子となられて、師の前で四十八の願い(四十八願)を建てられました。その十八番目の願い(第十八願)には、「たとえ私が仏に成ることができるとしても、私が実現する浄土に、あらゆる人々が心から生まれたいと願って念仏し、もし人々が生まれることができないならば、私は仏に成らない」とあります。そして、この願いを成就され、阿弥陀仏という仏さまに成られました。つまり、すべての人々が念仏して、浄土に生まれたいと願えば、必ず生まれるのです。しかも、そのことは遠い昔に決定しているとお釈迦さまは伝えておられるのです。
Q3 お釈迦さまは座っているイメージですけど、どうして阿弥陀仏は立っているんですか?
[A]
私たちに常にはたらきかける、慈悲があらわされています。
お釈迦さまにはさまざまなお姿があり、座っておられる像のことを座像、立っておられる像のことを立像といいます。座像があらわしているのは、覚りを得られたばかりのお姿です。いわば智慧を完成されたお姿といえましょう。お釈迦さまは、覚りの後、ご自分が体得された真実を世の人々に教え伝えようとして、座から立ちあがられ、真実に迷っている人々のもとに向かおうとされました。そのお釈迦さまの、歩きだされたお姿が立像としてあらわされたのです。この意味で、立像は慈悲の完成をあらわしているといえるでしょう。智慧が慈悲へと動きだしている様子がうかがわれるお姿なのです。
お釈迦さまの座像を通して、真実の智慧を仰ぐのは大事なことです。しかし、そもそも真実に迷っている私たちには、それは大変困難なことです。だからこそ、お釈迦さまは私たちに歩み寄ろうとして立像のお姿もとられるのです。
阿弥陀仏は、欲望に支配されて苦を味わっている人々を直ちに救い導くために、いつでも、どこへでも向かおうとして、立ち上がっておられます。だから、立像であらわされることが多いのです。立ち上がるまでのわずかな時間さえ惜しまれて、即座に私たちに向き合おうというお心なのです。『仏説無量寿経』に説かれる本願の教えからは、いまにも動き出しそうな阿弥陀仏のお姿が感じられると思います。
Q4 どうして、お釈迦さまが本尊じゃないんですか?
[A]
お釈迦さまが阿弥陀仏を本尊とするよう説かれたのです。
お釈迦さまは、真実に目覚めて仏さまに成られたのですが、そのお釈迦さまが、私たちに「阿弥陀仏を本尊としなさい」と教えておられるのです。お釈迦さまは歴史上に生きた一人の人間ですから、当然、その肉身は滅していきます。お釈迦さまは自分の滅んでいく身ではなく、真実である阿弥陀仏を仰ぎなさいと教えてくださったのです。
お釈迦さまが阿弥陀仏について説かれたお経には、『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』などがあります。『仏説無量寿経』は文字通り、無量寿仏、すなわち阿弥陀仏の四十八願と浄土について説かれたお経です。『仏説観無量寿経』とは、無量寿仏とその浄土を心に観察することを説かれたお経、『仏説阿弥陀経』は阿弥陀仏の浄土の様子や念仏の大切さが説かれたお経です。これら三つのお経を総じて「浄土三部経」といわれます。
これらのお経によりますと、阿弥陀仏は「私の浄土に往生しなさい」と願っておられるのです。そして、お釈迦さまは「ためらうことなく、阿弥陀仏のみもとに向かいなさい」と教えられています。このように、『仏説無量寿経』をお説きになられたお釈迦さまは、阿弥陀仏を本尊とし仰ぐことを私たちに教えておられます。
浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は「正信偈」(「正信念仏偈」)という偈に、こう記されています。「如来がこの世にお出ましになられたのは、ただ、海のように広く深い阿弥陀仏の本願をお説きになるためである。濁った悪い時代に生きるすべての人々は、如来の事実の通りのお言葉を信じるべきである」と。ここでいわれている「如来」とは釈迦如来、つまりお釈迦さまのことです。「如来」とは「如(真実)から来られた方」という意味です。阿弥陀仏のことを「阿弥陀如来」ともお呼びしますが、同じ意味が込められています。私たちを浄土に迎えようとして、私たちに常にはたらきかけておられるので、「如来」とお呼びするのです。
Q5 どうして木像だったり、絵だったり、文字だったりするんですか?
[A]
阿弥陀仏の慈悲と智慧はさまざまにあらわされています。
本尊には、木像、絵像、名号の3種があります。木像と絵像は共に、座から立ち上がって、迷っている私たちを急いで救済しようとしておられるお姿をあらわしています。
木像とは、阿弥陀仏のお姿をおごそかに木で表現したものです。主にお寺の本堂に安置され、多くの人々が一斉に礼拝できることが特徴です。また、木像ほど大がかりではなく、仏間などに安置されるのが絵像、つまり絵で阿弥陀仏をあらわしたものです。
親鸞聖人の教えをとても大切にされた蓮如上人は、本尊について、「木像よりはえぞう(絵像)、絵像よりは名号」(東本願寺出版発行『真宗聖典』868頁)と教えておられます。「名号」とは「南無阿弥陀仏」という言葉です。阿弥陀仏のお名前に、心から敬う気持ちをあらわす「南無」を添えて、私たちが日ごろ口に称える「南無阿弥陀仏」という文字を、身近なところに掲げて拝むのです。蓮如上人は、日常の生活のなかで、私たちが阿弥陀仏のはたらきをいつも身に受けることが大切だと示されました。
木像や絵像を通して、私たちは阿弥陀仏をとても具体的にイメージすることができます。木像や絵像は敬われるべき対象として、私たちを超え離れた世界を教えてくれます。しかし、ややもすると、単に願望成就のための対象物として本尊を捉えるということも起きてしまいます。「金を儲けさせてください」といった気持ちで本尊を拝むということも起こってくるのです。
蓮如上人は、そういった形を超え離れて、私たちにはたらいている真実を大事に受けとめなさい、という心で名号を大事にされたのでしょう。木像や絵像は私たちとは全く異質な世界があることを教えてくれますが、どうしても距離が生じてしまい、ひとつになりにくいところがあります。木像や絵像はそのようにして、阿弥陀仏が私たちの思いを超え離れていると教えてくださるのです。しかし、名号はいつでも称えることができ、私たちとひとつになってくださいます。このようにそれぞれの特徴をもちながらも、絵像・木像の本尊も名号の本尊も阿弥陀仏の慈悲と智慧の表現として伝統的に「方便法身尊形」としていただかれています。
Q6~Q10は本誌(『同朋』2023年1月号)をご覧ください。