📚「同朋」としてレイシズムにあらがう。(同朋_2022-12)
人間を人間として見ず、「〇〇人」というレッテルを貼って差別するレイシズム(人種差別)。この残酷な差別を乗り越えるために何をすべきか。日本社会のレイシズムに向き合ってきた辛淑玉さんと、親鸞に「共生」の願いを学ぶ近藤恵美子さんに語り合っていただきました。
マイノリティが生きていける社会を
近藤 現在の日本では、さまざまな差別が猛威をふるっています。たとえば2016年には、相模原の障害者施設で19名もの入所者の方々が殺害され、職員も含めて20数名の方々が重軽傷を負った事件が起きましたが、多くの場合、差別は過去に向き合えていないために起こっています。あの事件以前から、障害者差別はありましたし、社会的立場が弱い方を非難する風潮はいまなお根強い。しかも、加害者に共感する意見がインターネット上にはあふれています。
辛 加害者に共感している人たちには、自分が生きる社会を守ろうという気持ちが全然ありませんね。まったく無責任だと思います。日本のレイシズム(人種差別)は激しすぎて、マイノリティが生きていけない現実がある。はっきり言えば、死にたくなるような状況があるわけです。
でも、誤解してほしくないのは、「差別が苦しい。死にたい」という人は、その言葉の裏で「生きたい」と言っている。生きたいけれども、生きられないのです。つまり、私たちを生きさせない社会に問題がある。たとえば、私が「生きられないほど日本の差別は酷い」と言ったとして、「そうだね。だったら、死ねるといいよね」とはならないでしょ?
近藤 なりませんね。差別されることに問題があるのではなく、差別を許している社会が問題なのだと思います。
現在の風潮の背景には、保守的な政治家の差別発言を社会が許してきた影響もあるのではないでしょうか。とりわけ2000年以降、政治家による女性差別、障害者差別、外国人差別などがしばしば見受けられました。しかし、そういった人々は支持され、長期にわたって政治にたずさわった。社会的地位のある人間が公然と差別発言を繰り返すことで、差別が批判されにくい空気感が社会に広がっていったように受けとめています。
辛 差別って、快楽なんでしょうね。そうとでも考えなければ、日本の現状は理解できない。なかでもレイシズムには、おそらく麻薬にも似た、とてつもない快楽がある。だから、それを味わった社会は簡単には後戻りできません。今まで自分の奥底にためこんでいた差別を解放するのは心地よいのでしょう。社会には通常、「そんなことを言ってはいけない」というルールがある。だから、政治家は率先して差別を止めなければならないのですが、日本にそんな人はほとんどいません。市民を分断せず、差別を扇動しないということが政治家の基本です。
差別はどこまでも人間を分断する
近藤 政治家の差別扇動に保守的な市民が呼応していく動きもありました。その代表例として、「在日特権を許さない市民の会」(通称「在特会」)の影響も、現代日本を考えるうえで無視できません。
辛 在特会には日本人だけでなく、在日外国人も参加していました。旧植民地がルーツの在日コリアンと、戦後に新しく渡日した人は置かれている社会構造は一緒ですが、歴史の厚みが違う。ある意味で、新しい移住者には、在日コリアンよりさらに過酷な状況がある。その一部には、「在日コリアンは同じマイノリティなのに、私たちを助けない」という怒りがあったりする。差別は、そのようにマイノリティを分断したりもするのです。
あるいは、日本社会のレイシズムに過剰適応する在日コリアンだっています。こういったことがなぜ起こるのか、日本人は真剣に考えてほしい。マイノリティが日本の社会で生きるとは、どういうことなのか。レイシズムに適応しなければ、生きられないような状況だってあります。
在日コリアンで、自分たちの歴史を勉強したりできるのは、恵まれたごく一部の人です。自分たちの歴史だからこそ、当事者が学ぶのはつらいんですよ。本当は他にも学びたいことがいっぱいあるのに、いつも自分たちの存在に向き合わざるを得ないのですから。
近藤 関東大震災直後に多くの朝鮮人の方々が虐殺されたように、官・民が共にレイシズムを駆動させるのは極めて危険なこと。だから、市民は政治家の言動を日頃から、しっかりチェックすべきですね。あと、いまの話をお聞きして思ったのですが、もしかしたら、同じような問題を保守系の女性国会議員は抱えているのかもしれません。女性差別に過剰適応して、差別主義者の支持によって政治家として生き残ろうとする女性がいたとしても不思議ではありませんね。
辛 虐殺を平気で行うためには、人間としての心痛を抹消する必要がある。そのアクセルになるのも、レイシズムです。誰かを殺すために「朝鮮人は悪だ」といったフィクションを創作したうえで「国を守る」といった大義名分をふりかざす。関東大震災後の事件から約百年がたちますが、政府はいまだに真相究明に取り組みさえしない。日本のレイシズムが、単に良心で解決できる問題でないことは明らかです。
今年の7月、元首相の安倍晋三氏が襲撃された時、ネットにはすぐ「犯人は在日」というデマが流れました。多くの在日コリアンは「もしも」という不安に苛まれたと思う。もしそうなら、ますます在日コリアンへの暴力は激化したでしょうからね。
私のところにもたくさん連絡が来たのですが、私が言ったのは「状況が判明するまで家を出るな」ということです。犯人の名前が判明したら、今度は「民族名があるはず。やはり在日だ」というデマが流れた。とんでもない。民族名を名のって生きるのは大変な苦難で、決してデマの材料なんかにしていいことではない。そういう想像力がないのだと思います。
すでに民族名で生きてきた方は、病院とかで名前を呼ばれるとドキッとして立てない、といった経験を抱えていたりします。ある方が話してくれましたが、「○○さん、いますか」と呼ばれて、誰も周囲にいなくなってから、やっと受付に行き、小声で「すみません、さっき名前を呼ばれた○○ですけど」って。その方は高齢で、「この年になって、自分が名前を呼ばれて立てなくなるとは思わなかった」と語ってくれました。
現代日本のあまりにも醜悪なレイシズム
近藤 今年は『ニュース女子』の裁判など、辛さんにとって大変な一年でしたね。あの番組は、沖縄の平和運動を非難するために辛さんのルーツを持ち出し、沖縄、在日コリアンの方々を社会的に危険な存在であるかのように喧伝しました。
いまは状況が少し落ち着かれたでしょうか。あの事件をどのように受けとめておられますか?
*「DHCテレビジョン」制作の番組『ニュース女子』(東京MX TV、2017年1月放送)に名誉を毀損されたとして、辛氏が同番組の制作会社などに損害賠償を求めた裁判。今年6月、東京高裁は一審の東京地裁判決を支持し、同番組内容に真実性は認められないこと、「原告の出自に着目した誹謗中傷を招きかねない」報道がなされたことに言及し、名誉棄損を認めた。
辛 日本には差別禁止法がないため、在日コリアンは差別されっぱなしの状態です。しかも、すごく怖かったのは、私がもし裁判で負けたら、次に同じような被害を訴える方が出てきたとき、もっと酷い目にあっても、裁判で勝てないかもしれないということ。今回の判決では、やっと「原告の出自に着目した誹謗中傷を招きかねない」という一文を勝ちとることができました。些細なことかもしれませんが、私が裁判で闘うのは次世代に記録を残すためです。
当時のことは思い出したくもありませんが、番組の放送後、私が共同代表をつとめる「のりこえねっと」(「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」)に注文していない商品が大量に届いたりしました。私の家や仕事場だけではなく、クライアントにもそういったものが送りつけられる。最低なのは、何に使ったのか考えたくもないティッシュと一緒に私の写真が送られてきたり、しまいには汚物が家に投げつけられるんですよ。それでも、警察は動きません。
ほかにも、近所を歩いていると、手招きする老人がいたんですね。「どうしたのかな?」と思って近づいたら、いきなり卑語で罵られるわけ。こういうことが積み重なると、とてもまともではいられなかった。それもあって、約2年間、ドイツに住まいを移しました。そうしたら、ドイツにも嫌がらせが来る。私が日本を離れたから、私の兄の住所に嫌がらせの手紙が来たり。しかも、どこで調べたのかわからないけど、民族名の宛名で来るんですね。さらに母のところに、いきなりレイシストが訪ねてきて、「辛さんのお母さんですか? 娘さんにはいじめられましたからね」と言ったそうです。これは危ないと思って、母をドイツによびました。そんなことがあった後、私は日本に戻ってきて約1年間、日常の会話がちゃんとできませんでした。今でも人前での講演は無理です。なぜだか涙があふれてくるから。
ある在日コリアンの子どもは差別を扇動するデモをたまたま見てしまったために、それ以降、拡声器を見ると「殺される!」ってパニックになるんですよ。それが在日コリアンの現状です。それはそうですよ。だって、私たちはいつ殺されるかわからない。しかし、そういったことを訴えると、「反差別運動で飯を食ってる」「お前らは何様だ」などと言われてしまう。だから、言葉にもできない。私たち世代の在日コリアンはとにかく疲れています。いつも同じ話をしなきゃいけない。在日のことを在日が1から10まで説明しなきゃいけない。それはなぜ? ってことです。
裁判で一番きつかったのは、弁護士から「あなたはつらくてドイツに行ったんでしょう? その苦しみをちゃんと言葉にしてほしい」と言われたときでした。それは、言葉にしたくなかった。ここまで支えてくれている人がいて、ある意味で先頭を走ってきた自分が泣き崩れる姿を見せるというのは、とてもできなくて。それを口にしなければ理解されないとわかっているけど、一回、口にすると崩れ落ちますよね。でも、それなしには先に進めないって嫌というほどわかっています。
近藤 差別の被害を聞いて終わり、ではなく、次の一歩が必要なのだということを思いながら、聞かせていただきました。辛さんのお話を聞いた私たち一人ひとりが、実際に目の前の差別を止めるかどうか、それが大事だと思っています。
組織化されずに集まる、レイシズムと闘う市民たち
近藤 「こんな酷いことをされるってことは差別されるほうに何か問題があるんだろう?」といったかたちで差別される側の問題にしてしまうことで、何もしない言い訳にする雰囲気も日本にはありますが、どう思われますか?
辛 それは、自分のことにおいても闘った経験がないからだと思います。自分の尊厳にさえ鈍感な人がいきなり差別と闘うなんて無理。日本社会のマジョリティは、そもそも自分の内側から湧き起こってくる言葉をおおやけに口にしたことがない人がほとんどでしょう。他者と異なることをほめられたことも少ない。だから、数十年後を目指して、いま5ミリでも前進するために何をするか考えるほうがリアルじゃないかなと思う。
私たちは社会的構造的弱者なのです。闘える人は、もうすでに闘いきっている。ウトロにしてもそう。ここから先は、日本人の力なくしては、どうにもならないところに来ています。
この日本で、自分の意志をもって動ける人は本当にごく一部。でも在特会などの差別デモに対して、反レイシズムを掲げる、カウンター行動に集まった人たちがそう(下部の写真を参照)。過去の運動と何が違うのかというと、個人だってこと。組織に所属しない、お互い名前も知らない市民たちが何月何日に差別デモがあると聞くと集まってきて抗議の声をあげるわけです。私はカウンター行動の人たちの差別への抗議は、日本社会に生まれてきた、唯一の光だと思う。
最初はレイシストのほうが人数は多かったけど、いまや完全に逆転してる。圧勝ですよ。そのデモでの言葉がすごくて。たとえば、レイシストはカウンター行動の人たちを「おい、朝鮮人!」とか罵倒するんですね。すると、「そうだよ! おれはお前らが大好きな日本人だよ!」と答えている人がいたんですね。それでレイシストを徹底的に批判しておいて「在日コリアンのためにやってるわけじゃない」と言う。これは衝撃だった。
近藤 カウンター行動には従来の反差別運動の人というよりも、まったく新しいタイプの人たちが組織化されずに個人として集まっていると思います。これは日本の社会運動史上では、とても珍しいことですね。
逃げ場がないという差別の苦しみ
近藤 在日コリアンへの差別は、部落差別とも関係します。日本近現代史の研究者、黒川みどり氏が指摘するように、明治以後には被差別部落出身者は日本以外のルーツをもつ、異なる「人種」だという差別的見解が流布されました。被差別部落の起源について、「日本人」と異なる「人種」の人々が集まって生まれたと考える人が現在なお、それなりにいるということも調査で明らかになっています。これは典型的なレイシズムです。
辛 そもそも「人種」なんてものは存在しないんですよ。これはもはや西欧や米国では常識で、「人種」って言葉を使う人がいたら、それだけで不勉強だってわかるんですね。こういうことについて「あくまで対話が大事」と言う人も多いけれど、レイシストとは議論の余地はない。すでに歴史的に決着がついたものです。議論そのものがレイシズムに加担することになります。
かつて自民党の国会議員だった野中広務氏と『差別と日本人』という本を出したんです。彼と対談して、私がまとめたのですが、その際に彼から「出自のことは書かないでほしい」と言われました。現在ではおおやけになっていますが、彼は被差別部落の出身です。対談の内容は出自に関わる話がほとんどだったから、出版は無理かと思いつつ原稿を持って、彼に会いに行ったんです。「ごめん。これしか書けなかった。出版は断ってくれていいから」って。すると彼は誰にも何も言わず、出版を許してくれました。彼はやはり、どこかで自分のことを残しておこうと思ったのでしょうね。でも、周囲の反応は厳しかった。私はすぐ「そんなにあなたが苦しいのなら、絶版にしよう」と言ったのですが、彼は結局、絶版にしなかった。部落差別に限らないけれど、差別って逃げ場がない。だから、彼は相当の決断をして言葉を残した。
「とりあえず、いまは一緒に歩こう」
近藤 差別を指摘された人が「表現の自由を弾圧している」「多様な意見を認めないのか」などと、自分を正当化する言葉もよく耳にします。つまり、差別的な言説を主張するのも「表現の自由」であり、「多様性」なんだと。
辛 唾棄すべき言説ですね。まず、レイシズムとは「多様性」の否定そのものですから、「多様性」にレイシズムは含まれないんですよ。また、「表現の自由」についてですが、じゃあマイノリティの「表現の自由」をどう担保するの? ってこと。「表現の自由」とは、国家権力に対して、自分の意志を表明する自由のことです。たとえば、戦時下での自主規制などは自分からそれを放棄したわけで、表現の規制と言っても次元がちがう。差別を批判するマイノリティの訴えに対して、「表現の自由」をふりかざすのは暴力だと私は思う。
近藤 議論自体が何に加担しているのかを考えるならば、何でも議論すればいいというわけではない。むしろ議論や対話ができると思うこと自体、マジョリティの特権そのものなのでしょうね。
私たちの宗派は「同朋」という言葉を大事にしています。あらゆる人と共に歩いていく――そんな願いが込められた言葉です。でも、誰と共に歩むのか、結局選んでいないか、つねに点検が必要です。マジョリティにしか目が向いていないとしたら、「同朋」とは言えません。
いま宗教者は、ものすごく問われています。これまで社会に生きる者としての役割を果たしてきたのか、自分も含め問いなおしが必要だと切に思います。
辛 私は身近な人を慰めることはできても、社会制度を変えることは難しい。だから、5ミリずつ出来ることをやる。その一歩一歩に「同朋」って言葉は実現していると感じます。いろいろな人間がいて、嫌いな人だっている。だから、「あなたのことが大好き」なんて言わなくてもいい。「私もあなたもどうしようもない人間だけれど、とりあえず、いまは一緒に歩こう」って、それで十分だと私は思うな。
近藤 本当にそうかもしれません。今日はたくさんお話を聞かせていただきました。「聞いた」ということは「じゃあ、どうするの?」という応答にまっすぐにつながっています。それは私たちが具体的に何を発信していくのか、答えていく道のりになると思います。
辛 淑玉 (しん すご)
東京都生まれ。人材教育コンサルタント。「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(通称「のりこえねっと」)共同代表。2017年に渡独、ハインリッヒ・ハイネ大学現代日本研究所客員研究員として、マイノリティ研究に従事する。約2年の滞在期間中、ヨーロッパにおけるジェノサイド事例の現地調査を行う。著書に『怒りの方法』『悪あがきのすすめ』(ともに岩波新書)、共著に『差別と日本人』(角川oneテーマ21)など多数。
近藤恵美子 (こんどう えみこ)
福岡県生まれ。甲南大学法学部法学科卒業。NHK、東京大学医科学研究所勤務などを経て大谷専修学院で真宗大谷派教師資格取得後、現職。真宗大谷派九州教区長崎1組西光寺衆徒。主な論文に「私にとって「名のり」とは何か―夫婦選択的別姓を求める訴訟から」(『身同』第36号、真宗大谷派解放運動推進本部)、「障害者殺傷事件が私たちに問いかけるもの―二つの事件から考える」(『身同』第40号)などがある。
関連書籍のご紹介
月刊誌『同朋』12月号
定価:400円(税込)
「仏教がみちびく、あらたな人生」をコンセプトに、暮らしのなかにある大切なことを見つめる月刊誌。
【12月号の主な内容】
◎インタビュー 中田亮(ミュージシャン)
「「声をあげる」ことを、手放してはいけない。」
◎特集
レイシズム――日本の人種差別を問う
多様なルーツの方が生活する現代日本。
「日本人」ではないというだけで、苦難にさらされる方が多くいます。
「人種」というものを設定し、それに基づいて差別することをレイシズムと言います。
昨年のウトロ(京都府宇治市)への放火事件など、 日本社会のレイシズムがいま問題となっています。
なぜ人間を分け隔てするのか。どう向き合い、あらがうべきか。
さまざまな視点から考えます。
*本特集には差別の実態を批判的にお伝えするために、差別表現をそのまま引用した箇所があります。
●対談:「同朋」としてレイシズムにあらがう。
辛淑玉(人材教育コンサルタント)×近藤恵美子(真宗大谷派解放運動推進本部本部要員)
●ミニインタビュー:「反レイシズム規範」とは何か。
梁英聖(東京外国語大学世界言語社会教育センター講師)
●寄稿
人権が後退し、差別が加速した「ヘイトの30年」。/安田浩一(ジャーナリスト)
入管に対して絶望しないで闘うこと/指宿昭一(弁護士)
●ミニレポート:ウトロに生きる ウトロで出会う――ウトロ平和祈念館を訪ねて
●社会学者、ケイン樹里安さんが残した言葉にふれる。
●仏教の視点から/兪渶子(真宗大谷派僧侶)