東本願寺出版

📚歴史を知れば、今の自分が見えてくる。それが歴史の本当の楽しみです。(同朋_2023-02)

「歴女」や「お城マニア」など歴史好きが増える昨今、歴史の魅力って何でしょう?大阪歴史博物館館長で関西の都市の歴史に詳しい大澤研一先生と、

大学院時代に出身地・富山の近世史を研究した相良美希さんに語り合っていただきました。

 

“歴史を学びたい”と思ったきっかけは?

 

大澤 相良さんは、京都にある大谷大学の文学部歴史学科に進学され、大学院の修士課程まで進んで歴史学を学ばれたそうですね。よっぽど歴史がお好きだったとか?

相良 いえ、実は高校時代には理系を専攻していて、大学から文系に移るとは思っていませんでした。でも、大学に進学するとき、自分の今後の人生を考えて、4年間何を学びたいかを考えたときに、“歴史だな”と思ったんですね。

そのきっかけは本当に些細な出来事だったのですが、高校のときに通学路を歩いていて、ふと思ったんです。この道は、今はアスファルトで舗装されてるけど、昔は土だったんだろうなって。そう思うと、その時代にはどんな人が通ったのか、どんな身なりで、どんな仕事をしていたのか、と想像がふくらんでいったんですね。それで、そういうことを考えたり学んだりするのが歴史なのかな、と思って…。そんな理由から歴史を学ぼうと思いました。

大澤 相良さんは富山県富山市のご出身だそうですね。私は岩手県盛岡市の出身ですが、進路を決める高校3年生のときの恩師が、京都の大学で歴史学を学んだ先生だったのです。私はもともと古代史を志していたのですが、その先生から特に古い時代の歴史を学ぶなら関西の大学に行きなさいと勧められ、大阪市立大学に進学することになりました。そこで大学院の修士課程まで行ったのですが、そこまではずっと古代史を専攻していたんですね。

ところが、大学院を出て今の職場の前身である大阪市立博物館に就職したとき、“中世より古い時代はぜんぶお前の担当だ”と言われ、結局は近世も含めてこの地域の歴史を横断的に見ていくのが仕事になりました。すると、それがけっこう面白くなってきたんですよ。

もちろん、ある特定の時代に的を絞って、その時期の歴史を深く掘り下げていくという研究スタイルも意義深いですし、面白いのですが、今私がやっているように、地域に根差して時代を横断して見ていくのもすごく面白い。ですから、自分が関わっている地域の中では、できるだけ時代を通して見ていくという研究スタイルを心がけているつもりです。

 

「寺内町」はなぜ真宗寺院に多いのか

 

相良 先生が書かれた『戦国・織豊期  大坂の都市史的研究』(思文閣出版)を読ませていただきました。中世の後期から近世にかけて、大坂(大阪)という都市がどんなふうに形成されてきたかを詳しく研究して書かれた大著で、興味のある話題がたくさん載っていました。

私は、大学院では史料を読んで学ぶ文献研究ばかりしていたのですが、先生は考古学の発掘調査の成果を盛り込んだり、歴史地理学や建築史学の成果も取り入れたりされていて、多彩な視点をお持ちなのがうらやましかったです。

大澤 それは、私が大阪歴史博物館という職場に勤めているところから来る強みです。同じ職場に考古学専門の学芸員もたくさんいて、その中には中世や近世の考古学を専攻している人もいます。そういう同僚たちと普段から接していて、最新の発掘調査の成果などをリアルタイムで聞かせてもらえますしね。さらにいろんな分野の研究者がいますから、古代、中世、近世と時代を横断するような研究もやりやすいですし、地理学や建築史などジャンルを超えた研究成果にもアプローチできる。そんな環境にいられるのはとてもありがたいと思っています。

相良 特に先生は、戦国時代に大きなお寺を中心にしてできていった「寺内町」の研究に力を入れておられますね。私はもともとお寺の出身ではないんですが、現在は大分県竹田市にある真宗大谷派のお寺に住んでいますので、寺内町にも興味があります。先生のご本によれば、その時代の寺内町の多くは真宗寺院が中心になっていたそうですね。

大澤 ええ。真宗以外のお寺を中心にした寺内町もありますが、あまり多くありません。

相良 どうして真宗寺院が多いのか、その宗教的背景として、本願寺第八代蓮如上人がよく使った「仏法領」という言葉をあげておられます。

大澤 「仏法領」というのは、仏法がすべてを支配し、人々を守っているような空間ということでしょう。中世というのは、かなり価値観が多様化した時代ですので、その中で人々が結集してまとまるためには、求心力が必要でした。その場合、中心軸になり得るものとして大きいのはやはり宗教であり、人々の信仰です。戦乱も多い時代ですし、現世の生活が苦しい中で、日常的に信仰に心を寄せるというのは大きな要素だったと思うんですね。そんな時代に、蓮如の活動が大きな意味をもったのは間違いありません。実際、蓮如の活躍以降に寺内町が増えているという事実もあります。それぐらい、人々の共感を集め、信仰を広めるという蓮如の力は大きかったということでしょう。

 

「石山本願寺」という呼称の謎に迫る

 

相良 大学のゼミで、戦国時代に織田信長と本願寺が10年間にわたって戦った、いわゆる「石山合戦」についての史料を読んだことがあります。その合戦が起きた当時、現在の大阪城がある場所にあった本願寺は、実は「大坂本願寺」と呼ばれていたそうですね。でも、後世の人はそれを「石山本願寺」と呼ぶようになった。それはいつから、なぜ「石山」と呼ばれるようになったのか。先生のご本にそのことを詳しく論じておられる章があって、すごく興味深く読ませていただきました。

大澤 戦国時代に大坂にあった本願寺は、実は「石山本願寺」とは呼ばれていなかったという説は、わりに早くから唱えられていたのです。では、なぜ「石山」と呼ばれるようになったのか。従来の説では、本願寺側の事情からそうなったと言われていたのですが、本当にそうなのか、という疑問を感じたんですね。それでいろいろ史料を調べていくと、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した博多の豪商で、茶人でもあった神屋宗湛の日記の中にヒントが見つかったのです。

本願寺が信長との戦いに敗れて大坂から退いた後、そこに豊臣秀吉が大坂城をつくったわけですね。その大坂城に秀吉を訪ねた宗湛が、日記に大坂城のことを「石山御城」と書き、その横に注記するように「大坂」と書き加えているのです。ですから、その時代には既に大坂城のことを「石山城」と呼ぶ呼称があり、その言葉を初めて聞いた宗湛が、自分の心覚えのために「大坂」と書き加えたのではないか、と考えられるんですね。

では、なぜ大坂城のことを「石山城」と呼ぶようになったのか。これもいろいろ史料を調べていくと、秀吉が築いた大坂城は、平地において大量の巨大な石材によって築かれた総石垣造りの城だったことが分かります。それまでに例がなかったこの「石の城」の景観こそが「石山」の語源ではなかったかと私は推測しています。近年には城郭についての研究が急速に進化していますので、その成果に助けられて研究をまとめられた形です。

相良 そう言えば、最近はお城好きの人が増えて、テレビでもよく話題になっていますね。

大澤 そうですね。そして、秀吉の大坂城が「石山城」と呼ばれたことで、「石山」が大坂城の所在地一帯を指す言葉になり、かつてそこにあった大坂本願寺のことを後の世になって「石山本願寺」と呼ぶようになったのではないかと考えています。

 

古い文献史料をじっくり読み解く楽しみ

 

大澤 ところで、相良さんは大学院でどんな研究をなさったのでしょうか。

相良 私は、時代で言うと近世の後期ですね。江戸時代の文化、文政、天保年間あたりに、私の出身地である富山県の立山で盛んだった山岳信仰について研究しました。

どうして近世史を選んだかと言うと、実は先生から「江戸時代の方が、史料が多いですよ」と助言をいただいたからなんです(笑)。それだけに、読むものが多くて大変でしたが。

大澤 そのとおり。近世以前、中世のあたりはどうしても史料や記録が限られますから、文献研究だけで分かることが本当に少ないのです。

相良 でも、そうやって史料をたくさん読んだおかげで、昔の文献をていねいに読み解いていくことがとても好きになりました。

なぜ立山の山岳信仰を取り上げたかと言うと、私が育った地域では小学校6年のときに学校行事の一環で「立山登山」がありました。古くから修験道がさかんな信仰の地ですから、登っていても畏敬の念が湧いてきますし、「地獄谷」といった場所もあって、すごく怖かった思い出もあります。さらに、江戸時代までは女人禁制だったという歴史もあり、それはどうしてだろうという疑問にもつながっていって、それが修士論文で立山信仰を取り上げようと思った遠因になりました。

具体的にどんな研究をしたかと言うと、現在も残っている当時の立山の史料でいちばん多いのが、裁判の訴訟文書なんですね。宗教者同士が、山の権利をめぐって利権争いをするわけですが、それが江戸時代頃から200年ぐらいにわたって断続的に続いたのです。なぜそんなに長く続いたのか、とても興味深くて、残された訴訟文書を紐解きながら集落の歴史をたどっていくような研究に取り組みました。

大澤 そういう昔の文献を読むのは難しいと思うのですが、それが好きになったというのはなぜなんでしょう。

相良 正直に言うと最初のうちは何が書かれているのか理解できなくて、好きじゃありませんでした。でも、だんだん読み慣れていくと、「恐れながら願い上げ奉り候」といった決まり文句の合間から、その文書を書いた人の気持ちが見えてくるんですよ。つまり、利権を争うということは、その利権に頼って生きている人がいたということですよね。それだけに、裁判のための文言にも真剣さというか、必死で書いている勢いが伝わってきます。そこに生きている人間の姿が見えてくるような気がして、すごく魅力を感じました。そんなこんなで、古文書の虜になっていったのです。

 

今を生きる私たちに歴史がどうつながるか

 

大澤 今おっしゃったように、歴史を学ぶうえで“人が見える”ということはすごく大切だと思います。さっきも申し上げたとおり私はもともと古代史を学んでいたんですが、古代史ってなかなか人が見えてこないんですね。天皇とか貴族といった偉い人は見えても、民衆の姿はめったに見えてこない。残っている文献は政府がつくった公式な記録がほとんどですから、一般の人の生きざまは書かれていないのです。

その点、近世になってくると、相良さんが研究された訴訟文書のような地方文書がたくさん残っていますし、そこから一般の人の暮らしぶりがよく分かる。そうすると、自分に突き刺さってくるというか、共感できるような話題がたくさん出てきます。

相良 おっしゃるとおりです。

大澤先生は、大坂という都市の成り立ちを研究してこられましたね。街の成り立ちって、いろんな人の営みが織りなしてきた歴史だろうと思うのですが、特にこのへんが面白いといったことはあるのでしょうか。

大澤 そうですね…。実は先日、大阪のなんばのあたりをフィールドワークで歩いてきたんですよ。というのは、大阪の中心部を通っている御堂筋という大通りがありますよね。御堂筋というのは、京都の西本願寺の別院(津村別院・北御堂)と東本願寺の別院(難波別院・南御堂)というふたつの御堂があることからついた名前ですが、その御堂筋のあたりで、2025年の大阪・関西万博に向けて大規模な整備が進んでいます。それに伴って、御堂筋に沿ったミナミの地域の方々が、そのエリアがかつてどんな歴史を歩んできたのか学びたいというので、声をかけていただいてフィールドワークをすることになったわけです。

そのように、自分が住んでいる地域の歴史を知れば、今のわれわれにつながるヒントが見えてきます。結局のところ、歴史というのは、どれだけ今生きている人の役に立つかが大切だと思うんですね。

 

地域の歴史をつないでいるのはお寺

 

相良 先にお話ししたとおり、私はお寺ではなく一般の家庭で育ったわけですが、それだけに現在お寺に住んでみて実感するのは、地域の門徒さん方の歴史をつないでいるのがお寺なんだ、ということです。門徒さんがお参りにみえたときに、“あなたのお祖父さんはこういう人だったんだよ”といったことをお寺の人が教えてあげることがよくあるんですね。現在は門徒さんでも、息子さんたちは都市部に出て行って帰ってこないといった事情もあって、故郷との関わりが少しずつ薄くなっていくなかで、お寺が「かすがい」になって歴史をつないでいく役目を果たしていると感じることがあります。

大澤 相良さんがお住いのお寺がある竹田市も長い歴史のある街ですね。

相良 ええ。江戸時代は岡藩の城下町で、難攻不落の堅城といわれた岡城跡は国指定史跡になっていますし、由学館という江戸時代の藩校跡に竹田市歴史文化館が建てられています。著名な出身者としては、田能村竹田という江戸時代後期の文人画家が竹田の出身ですし、「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎も幼少期に住んでいたことがあるそうです。

大澤 私が竹田市を訪れたのは30年ほど前ですが、近々また訪れたいと思っています。というのは、今話に出た岡藩の藩主だった中川氏は、徳川氏が大坂城を再建したときに動員されているんですね。その徳川大坂城の普請に関わったときの記録が竹田にたくさん残っているらしいので、見せていただこうと思っているのです。

相良 先ほど「石山」という呼称が大坂城の石垣に由来しているかも、というお話がありましたが、岡城も立派な石垣で知られています。

大澤 そうですね。そもそも大きな石を調達し、それを積み上げて城を築く技術は、中世から近世にかけて急速に発達したのです。豊臣大名だった中川氏も大坂城や朝鮮出兵時の倭城など当時最先端だった城を参考にし、所領の城づくりに活かしたのではないかと思われます。

相良 先生の本の中に、江戸時代の城下町の一角にお寺を集めた「寺町」のことが書かれた章がありましたね。私が住んでいるお寺はまさにそうした城下町の端っこの寺町にあるので、その章も興味深く読ませていただきました。

大澤 寺町も地域によってつくられ方が違ったりもしますし、そのへんを読み解くのも面白いですね。

 

楽しみは食とお酒街歩きも楽しみのひとつ

 

大澤 相良さんは、お寺に住んでいると地域の人たちといろいろ交流があると思いますが、その機会に地域の歴史を聞かされたりすることはありますか。

相良 はい。皆さん本当に親切で、外から来た私にいろいろ教えてくださいます。竹田市の中心部は山に囲まれた盆地なので、トンネルの数が多く、通称「レンコンのまち」といわれるということは何人もの方からお聞きしました。

それから、郷土料理のことも教えていただきました。浄土真宗のお寺には報恩講という法要があり、そのときには「お斎」といって精進料理をお出しします。そのメニューのひとつに「あいまぜ」というのがあります。甘酒と豆腐を使った白あえのような料理で、ずっと代々伝えられてきた地域の伝統食です。甘酒を使うのは、砂糖が貴重だった歴史があるからで、甘いものをお寺で食べるという楽しみのために、みんなで仕込みをして料理するならわしになっています。ただし、この3年間はコロナの影響でお斎の振る舞いができていないのが残念です。早く元に戻ればよいのですが…。

大澤 食ってすごく大切だと思いますよ。私は、歴史と食とお酒の3つが揃わないと駄目だと思ってるぐらいです(笑)。まあお酒はともかくとして、食というのは暮らしの中でいちばん身近な存在ですから、そこからいろんな話題が広がっていきますね。

相良 食とお酒以外に、先生はどんな趣味をお持ちですか?

大澤 やはり街歩きが大好きで、時間があればいつでも街へ出歩きたいくらいですね。小さい頃から地図が大好きで、地図で見たところへは実際に行ってみたいという気持ちが常にあります。ですから、大阪や関西以外にも各地で仕事をさせていただきますが、そういう際には必ず現地に足を運んで、その様子を体感して考えるというのがいつものやり方なのです。

街を歩いていると、その都市の歴史が見えてくることもありますしね。街を歩くときには、いつもきょろきょろ周囲を見回して、何か面白いものがないかを探しています。不審者に間違えられそうですが(笑)。

 

今をどう生きるのかヒントを与えてくれるのが歴史

 

相良 先生は、歴史を学ぶことの意味ってなんだと考えておられますか。

大澤 私は現代に生きていますが、ここに突然降ってわいたわけではなく、自分の先祖とそれを取り巻く社会があって、初めて私が今ここにいるわけですね。ですから、さまざまなものが私につながっていることは間違いありません。その自分につながるものを遡っていけば、自分がどういうものか分かるかもしれない。

相良 歴史を知れば、自分が分かる。それが歴史を学ぶ最大の意味かもしれませんね。

大澤 ええ。自分が今をどう生きるのか、これからどうやって生きていくべきなのか。それを考える上でヒントになるのが歴史です。

2020年から新型コロナウイルス感染症の流行が続き、私が勤めている博物館も休館に追い込まれた時期がありました。また、来館者が激減する中で何をやろうかと考えて、大阪における疫病の歴史を展示したこともありました。

こんな発達した現代社会で、疫病などというものが自分に降りかかってくるなんて、考えたこともなかった人が多いことでしょう。でも、歴史を振り返ってみると、疫病の流行なんてかつては当たり前のことだったわけです。特に中世などは、史料を見てみれば本当に疫病がない時期の方が珍しいような状況でしたから。

そういう意味では、コロナの流行によっていろいろなことに気づかされました。まず、自分たちが当たり前だと思っている生活が、実は当たり前じゃない、ということ。そうすると、当たり前だと思っていた生活は、どういう条件で可能になっていたのか。この機会にもう一回振り返ってみたいという気持ちも出てきます。

それから、自分の足元を見つめ直すことの大切さも感じます。例えば、私の職場の近くには大阪城がありまして、コロナ以前には海外からの観光客がとても多かった。ですから、博物館はその海外のお客さんに向けて大阪の歴史を発信する役割も担っていたわけです。しかし、コロナで海外のお客さんが減り、どうしようかとなったとき、今度は地域の方に大阪の歴史をもう一度しっかり振り返っていただく必要性を強く感じたんですね。そこで現在は、もう一度自分の足元を見つめてみようという趣旨の活動にさまざま取り組んでいます。

さらに、昨年の2月からウクライナの戦争が始まり、改めて今、現代世界の国々がどういう形でつながっているのか、ということを突きつけられたように思います。そういう意味では、世界との関わりを含めて歴史を考えていくという視点の大切さも感じるようになりました。

相良 そうですね。歴史を学ぶことが、自分の生き方を見つめ直す機会になるということは本当に感じます。今日は大切なことを教えていただき、ありがとうございます。

大澤 こちらこそ、ありがとうございました。

 

大澤研一 おおさわ けんいち

1962年岩手県生まれ。大阪市立大学文学部卒業。大阪市立大学大学院文学研究科前期博士課程中途退学。大阪市立博物館学芸員、大阪歴史博物館学芸課長などを経て、2020年に大阪歴史博物館館長に就任。博士(文学)。著書(単著)に『戦国・織豊期大坂の都市史的研究』(思文閣出版)、共編著に『寺内町の研究』(法藏館)、『秀吉と大坂:城と城下町』『岸和田古城から城下町へ―中世・近世の岸和田』(共に和泉書院)などがある。

 

相良美希 さがら みき

1986年富山県富山市出身。真宗大谷派九州教区奥豊後組光西寺(大分県竹田市)衆徒。大谷大学文学部史学科卒業。大谷大学大学院文学研究科仏教文化専攻修了。