東本願寺出版

📚沈黙を開き、 話を「聞く」とは。(同朋_2023-03)

沖縄県の未成年の少女たちの語りに耳を傾け、支援・調査を続ける上間陽子さん。

そして、女性の痛みを無視しない教えを親鸞に学ぶ西寺浄帆さん。

お二人に「聞く」ということをめぐって、語り合ってもらいました。

 

あきらめずに言葉を探すこと

 

西寺 上間さんのご著書を今回あらためて読ませていただきました。『裸足で逃げる』(太田出版)には、DVやレイプなど性暴力にさらされながら、沖縄で生きる少女たちの声がそのままに記されています。また、『海をあげる』(筑摩書房)では、少女たちの声に加えて、加害者男性の声や基地問題、ご自身の娘さんやご家族のことなど、様々な視点から現在の沖縄のすがたを描写されています。

どちらの著作にも巻末に何年何月何日にどなたから、誰と一緒にお話を聞かれたのかという、インタビュー調査の詳細な記録が付されていて、そこからも話を「聞く」ということの重さに圧倒されました。

上間さんが住む辺野古近くに限らず、沖縄は第二次世界大戦での苦難を経た現在も、基地問題などに苦しめられています。本来なら県外の私たちがもっと関心をもつべきなのですが、実際には沖縄の方々が声を上げて私たちに知らせてくださることがほとんどです。しかも、沖縄から「つらい」といった声が上がると、耳を貸さないどころか、調和を乱すものとして排除し、非難するということがある。おとなしく耐えていればほめるけれども、暴力に対して声を上げると、むしろ「和」を乱す加害者とみなす傾向は強いと思います。

そんな状況をまざまざと見せつけられるなかで、声を上げる/上げない、反対/賛成という選択を迫られる現状があります。でも、声を上げるとその場所で生きられなくなるほどの圧力がかかる場合もあり、沈黙せざるを得ない局面もあると思うんです。だから、沈黙はそのまま現状への同意ではないはず。それなのに沈黙はしばしば同意として受けとられ、そもそも問題であるはずの暴力さえ等閑視されてしまう。ご著書を読み、そんなことを感じました。特に『海をあげる』の表題作にある、「爆音の空の下に暮らしながら、辺野古に通いながら、沈黙させられているひとの話を聞かなくてはならないと、私はそう思っている」という文章が強く印象に残っています。

上間 そんなふうに読んでいただけたなんてと思いながら聞きました。ありがとうございます。『海をあげる』で私が一石を投じたかったのは、無関心でいながら沖縄を加害者とみなす人たちです。でも読んでくださったのは、むしろ優しい方、深く考えている方が多くて、その人たちを傷つけてしまったかなと思います。批判したかった人たちにはなかなか届かなかった。

『海をあげる』を書きながら考えていたのは、沖縄は私が生きている間はずっと今のような状況なんだろうなと。でも自分には娘がいる。娘の友達も、私が話を聞かせてもらった女の子たちもいる。彼女たちのことを思うとようやく沖縄のことを諦めないでいられる、そういう決意のために書いたところもあります。あの本に書いたことは自分の際々きわきわなんだと思います。絶望し切っているから、絶望している場合じゃない。そういう反転した気持ちを込めました。

沖縄には、どんな活動をしても権力に人間が踏みにじられる現場も、身近な実践の場で人間が変わっていく現場もあります。私が主に関わっているのは後者で、少なくともそこには自分の取り組みを反映できる。私もほかの人も変わっていけると信じることが、何か救いのように感じられます。

西寺さんがさっきおっしゃった基地の話については、私も当然ひしひしと感じています。でも、この問題は多層化しています。まずは言説を作り出せる場所にいる人たち。ここに含まれている、経済的な発展が沖縄を変えると考える人たちにとって、基地は主題にはならない。一方で基地問題こそが主題という人たちもいて、その開きは大きい。この問題について発話できる人々のいわば裾野に私が話を聞いている女の子たちがおり、こうした多層化した現実に届く言葉を探すのが課題だと思っています。ただ、言葉を探すよりもむしろ今は「おにわ」(注1)があるので、実践として毎日やることがいっぱいという感じです。

注1 2021年10月にオープンした若年ママの出産・子育ての応援シェルター。上間氏は共同代表・現場監督を務める。10代の妊娠8か月から赤ちゃんの生後100日までの方が入居の対象者。

 

目の前の沈黙はどう開かれるのか

 

西寺 沖縄の基地について「国を守るためには仕方ない」という意見も耳にしますが、それは「家庭を守るために女性は耐えなくてはならない」といった言葉づかいに通じるように感じます。「あなたの苦しみは仕方ないこと」というメッセージを送られ続けるのは、凄まじい苦しみではないかと思います。

上間 先ほど沈黙という言葉にふれてくださいましたが、沈黙している子がどうやって言葉を出してくるかというのは、やっぱりとても難しい。調査で会う子たちは自分のことをしゃべるつもりで来る子が多いのですが、「おにわ」に来る子たちは、誰にも何も言ったことがないという状態で来ることもあって、話してくれるまでの向き合い方が違います。

「おにわ」で何をやっているかというと、「食べなくてもいいから」といいながらご飯を出したりして、とにかく空間を整える。最初は威嚇する猫みたいに「シャー!」ってなってる子もいますから、本当に一歩ずつです。「実は身体が痛い」と苦痛を訴えたり、自分が受けた暴力を話してくれるのは、ある程度時間が経ってからですね。

そんな様子をまのあたりにして、彼女たちは沈黙させられているなと感じますし、沖縄という場所がそういう問題を抱えているとも思うのですが、大きな言説の空間で、この沈黙を破る方法は探し出せていません。だから、日本対沖縄、加害と被害の問題とか、そういう大きな問題をとりあえず今は止めていて、目の前にある沈黙をどうやって開くかということに集中して、しばらくは実践をしっかりしようって感じです。

女性差別の問題にも同じような姿勢で向き合っています。私が直面しているのは限りなく女性差別の現場です。でも私の不徹底さなのかもしれませんが、私はあまり女性差別という言葉を使わない。言説の空間で勝負するとなると切れ味がよくて、社会の構造を見通せる、クリアな言葉が求められます。私の本職はそれなんですけれども、実践に軸足を置くと、女性差別という言葉を誰かに投げかけても実践は難しい。それを言ったぐらいでは現実が動いてくれない。現場で必要なのは、構造の理解はもちろんですが、実利のある言葉だと感じます。

支援の現場で感じるのは、女性差別は本当にめちゃくちゃあるってことです。あまりにしょっちゅうぶつかるので、「あなたの女性差別がまず問題でしょ」などとぶつくさ思うんですが、実際に交渉対象の誰かを前にして女性差別の問題を前景化するというメリットは少ない。たとえば、行政と交渉するときは、どうすれば担当者と私たちがつながれるかが肝なんです。現状をクリアに切り取るより、つながりを探すほうが戦略的に有効だと思っています。それは女の子たちを守りたいから、そこを真剣に考えないといけない。だから、実利をどう得るかということです。

女の子たちと話すときも、女性差別といった言葉は使っていません。大きい言葉はまだマッチしないと思うので、まずは「そんなふうに殴られたの」「そんな言葉を言われたの」「きつかったね」とか、具体性をもって近づく。その子が付き合っている男性に対して心中で「このクソDV野郎」と思ったとしても言わない。でも、「おにわ」に来て数か月経ったら、「あれ?  私が受けたのはDV?」とか本人が言うんですよ。

 

本当に「聞く」ことの難しさ

 

西寺 上間さんのご著書を読んで、「聞く」ということの難しさを思いました。親鸞は「南無阿弥陀仏」と仏の名を称える仏教を信じたのですが、名を称えることも自力ではなく、自分はあくまで名を聞く側だと「聞名」を大事にしました。だから、私たちの宗派では「聞く」ということをとても大切にします。でも、これは単にいつも受け身で「聞く」ということでもないと思います。相手の話を「聞く」といったときは聞き手の姿勢が問われますよね。

たとえば、ある10代の子と話していて「私の気持ちを説明しないで」と言われ、絶句したことがあります。ややもすると私は「ここは安全だから、何でも話を聞くよ」というつもりで接しがちなのですが、そうではなく、相手が言葉を安心して紡ぎ出せたとき、その子にとってその場が安全かどうか、初めて証明されるんじゃないかと思います。

上間 その子、よくそう言えましたよね。それは西寺さんにちゃんと伝わると思ったから言ったんだと思いますよ。「おにわ」では、女の子たちからしょっちゅうダメ出しをされるんですが、彼女たちはこのことを言ったら絶対にわかってくれる、聞いてくれるという人を選んで抗議も含めて話しますね。大人側が「話してくれてよかった」って、まずはまるごと相手の言葉を聞くのは大事。

「おにわ」のスタッフには泣き虫が多いんですよ。話を聞いて「大変だったね」って泣いてる。それがすごくいいんですよね。痛みがちゃんとわかる人がいいんだなと思います。気の利いた言葉を返すんじゃなくて、彼女たちが話す痛みとか風景が見えていることが絶対に大事。勝手にジャッジする大人を彼女たちは嫌います。本当に話を聞こうと思っているのか、サービスで話を聞いているのか、彼女たちはすぐに察知する。相手を見抜き、大人側にサービスして話す子もいますが、それは本当に話したいことじゃない。

だから、その子の核にふれるような、本当の気持ちに近づく質問は何だろうってことは常にあります。

 

自分が聞きたい言葉を相手に強いていないか

 

上間 それにたとえ私たちが何か言葉を聞いたとしても、それは本当に彼女たちが思っていることなのか、慎重になる必要があります。そもそも彼女たちは自分たちで何でも選ぶことができると思っているわけではない、という場合がある。だから、自己決定自体ができる場所にいない人に自己決定を無理強いして、こちらが求める聞きたい言葉を言わせていないか、私たちは本当に厳しく自分たちを精査し続けないといけない。

だから、実際の現場では自分が見えてない点をいっぱい発見させられます。けれども、それを指摘されるのが嫌いな人もいる。私は「それは知らなかったな」みたいに話を聞くことで、自分が変わることを面白がるのが大事と思っていますが、そうでない方もいますね。

いろんな現場がありますが、理解のベースを自分ではなく、徹底的にその子に置くことだと思います。「目の前のこの人はいったい、どんな人なんだろう」と思えるかが一番大事。「発見モードだよ」ってスタッフによく言うんですけれど、「この子はどんな子なんでしょうね」みたいな感じ。そうして大人たちは話を聞きながら、その子自身が自分なりに腑に落ちる言葉を紡ぐ、というのが大事と思っています。

西寺 親鸞は人間が他者に関わるときに自力の心がまじると言います。ある意味で、自分を含め誰か何かを思うままにしようとする心です。でも、人を思うままになんてできません。だから、そのような思いのもとでは、本当に一人ひとりの人間として他者の存在にも、自分の存在にも向き合えない。

でも、注意しないといけないのは、こういった言葉づかいが弱いものにさらなる忍耐を強いていないかということです。現実の苦しみを語りだした人に向かって、「お前は他を自分の思い通りにしたいのか」などと難詰するとしたら、それは親鸞の教えの意図とは異なると思います。

上間さんは「聞く」ということについて、「その人の願いが先で、そのために私たちがいる」とおっしゃっていました。私たちが本当に自分で何かを決め得るとしたら、私たちをどこまでも支えてくれるどなたかがそばにいてくれるときではないか。そんなことを感じながら、お聞きしていました。親鸞の教えに照らせば、だからこそ真に私たちに慈悲をかけてくれる阿弥陀仏のはたらきが必要なのでしょうね。

 

上間陽子 うえま ようこ

1972年沖縄県生まれ。琉球大学教育学研究科教授。1990年代から2014年にかけて東京で、以降は沖縄で未成年の少女たちの支援・調査に携わる。著書に『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)、『海をあげる』(筑摩書房)、『言葉を失ったあとで』(信田さよ子との共著、筑摩書房)など。

西寺浄帆 さいじ しずほ

1980年愛知県生まれ。真宗大谷派僧侶。真宗大谷派三重教区本覺寺坊守。愛知学院大学文学部日本文化学科卒業。大谷専修学院卒業後、池田勇諦師(真宗大谷派西恩寺前住職)のもとで僧侶として歩み始める。現在、フェミニストカウンセリングについて勉強中。「本覺寺やぎさん文庫」主幹。