東本願寺出版

📚今日も順調に苦労続き!「当事者研究」が開く世界。(同朋_2023-03)

精神障害がある当事者自身が、自分の助け方を考える「当事者研究」。

医療の常識を破るこの方法を「べてるの家」の仲間たちと実践してきた向谷地生良さんと、

自分の悩みを大切にしながら親鸞思想を研究する中山善雄さんに語り合ってもらいました。

 

苦労を抱えた自分の助け方を仲間と共に見つけだす

 

中山 向谷地さんは、北海道の浦河という過疎の町で、「浦河べてるの家」という精神障害者の活動拠点にソーシャルワーカーとしてずっと関わってこられました。そして、そこから生まれた「当事者研究」というユニークな方法論が注目を集め、今では精神医療だけでなく様々な分野で応用されているそうですね。

「当事者研究」とは、精神障害のある人が、仲間と話し合いながら、その人らしい「自分の助け方」を自分自身で探していくというやり方だと本に書かれていました。こころの病を抱えた人はいろんなことで苦労するわけですが、その自分自身の苦労を大切にし、それをどうするか研究する中で、言葉を獲得していく。そういう営みが「当事者研究」なのではないかと思っています。向谷地さんにとって「当事者研究」とはどういうもので、どんな意義をもっているとお考えでしょうか。

向谷地 それまでの精神医学の歴史では、例えば統合失調症といったこころの病について、それがあってはならない忌まわしい出来事のように考えられ、周縁に追いやられてきたわけです。しかもその病気の経験は全く無意味だとされ、当事者は自分が病むという現実を自分自身で否定し、拒絶するように強いられてきた。それに対して「当事者研究」は、これまで拒絶を強いられてきた病の現実を自分に引き寄せ、自ら関心を向けて研究していくという、まったく正反対の発想で現象に立ち向かおうとするわけで、そのことがもつ意味はとても大きいと思うのです。

これまでの精神医学では、いわゆる患者が自らの症状を語ることは、患者自身の苦しみを増す危険なこととされてきました。当事者は、そうやって自分に起きていることから目を背け、関心をもつことすらできなかった。ところが「当事者研究」は、逆に思いきりその世界の扉をこじ開けたわけです。すると、そこに広がっていたのは、豊かで可能性に満ちた世界だった。それが「当事者研究」だと私は思っています。

これまで、話にまとまりがないとか支離滅裂だと言われて、語ることを躊躇ってきた人たちが、支離滅裂でもいいからとにかく今の自分を語ってみる。それをみんなで認め合うことで見えてきた世界が、「当事者研究」の世界だったのです。それは決して無意味で無駄な世界ではないという手応えを感じています。

 

周縁化された人々の世界に大切なことが潜んでいる

 

向谷地 例えば、私は以前、東京でずっとホームレスをしていた女性と会ったことがあります。もう70歳近い方ですが、彼女によれば社会では得体の知れない組織によってガスが放出され、それが空気中に充満している。人が生きにくくなるというそのガスを、彼女は「トンコロガス」と呼んでいました。

彼女はそのガスから逃れるために、社会から離脱して、路上を逃げ回っていたというんですね。その話を聞いていると、私もなんだかそのガスが本当にあるような気がして、「そのガスの出どころや、ガスが充満した社会を浄化する方法を一緒に探しませんか」と言ったら、その女性はとても喜んでくれました。

その方が避難していたシェルターの部屋は、床は段ボールだらけ、天井からはいろんなものがぶら下がっていて、その方がホームレスをしていた場が再現されているような気がしました。そこで、「これはどういう場ですか」と訊くと、「自分だけ暖かいところにいて、食べたいものが食べられるような場にいると、今も路上で生活している仲間のことが心配でたまらない。だから、その仲間を忘れないためにこんな部屋にしているんだ」と言うわけです。その言葉を聞いて、私は本当にすごいなと思いました。

そういう周縁化された人たちが生きる世界には、とても大切なことがあるような気がしました。精神科という鉄格子の中に長い間押し込められていた人たちの言葉に大事なものを感じるのです。

中山 今のお話は面白いですね。私たちいわゆる健常者は、実は現実の問題が見えていなくて、むしろその女性が言うトンコロガスが充満する社会の方が本当の現実の姿かもしれない。向谷地さんの本を読ませていただくと、統合失調症といった病気とされてきたものは、本当に病気なのか、と感じました。むしろ、いびつな環境によって傷つけられた身体が敏感に反応し、自らを回復しようとして起きているのが病の「症状」ではないだろうか。健常者も抱えている問題を、いちばん敏感に感じ取って、それを伝えてくれているのかもしれない、と。

向谷地 そうですね。中山さんが言われるように、何か独特のセンサーを持った人たちが、社会の歪みを敏感に感じ取って、それを症状として発しているという可能性は本当にあるような気がします。アーサー・クラインマンという文化人類学者が「病の語り」という言葉で伝えているように、病という現象は自分が生きる社会の現実と連結しているのかもしれない。それはとても大事な発想だと思います。

 

 

統合失調症には近現代への問いかけがある

 

中山 向谷地さんの本に、“統合失調症は基本的に近代以降の病気だ”と書かれていました。そうだとすると、人間が一人ひとりしっかりと個を確立し、自律的に生きなくてはならないという近代社会のプレッシャーの中で、人と人がつながりを見失うような歪みを感じ取り、「症状」として発しているのが統合失調症かもしれない。そしてその中で、先ほど「病の語り」とおっしゃったように、人間をつないでいくような物語を再生しようとしているのではないか。そういう近現代の社会に対するひとつの問いかけがあるように思います。

向谷地 本当にそうです。最近思うのですが、今の社会では多様性とかダイバーシティが大事だとよく言われるけれども、そこで言われる多様性以上に人間はもっと多様なのではないか。統合失調症などメンタルなトラブルを経験した人たちが語り始めた自分というのは、想像以上に多様です。だから、私たちはそれぞれに多様な自分を一度みんなの前で開いて見せて、人はこんなに違うということを互いに知らせ合った上で、「共に生きる」ことを受け入れ直す必要があるような気がします。

中山 私も現在よく言われる多様性という言葉には少し違和感があります。何か、自分自身がマジョリティとして社会の中心にいるという前提を崩さず、障害者など周縁化された存在をそのままにしておいて、多様性と言っているようなズレた感じがするのです。さらに言えば、本当は自分自身の中にも想像できないほど多様なものがあったり、自分でコントロールできない寂しさや虚しさがあっても、それを見ないようにして確固たる自分を築いたつもりになり、もっぱら自分の外に多様性を見ようとしているような感じを受けることがありますね。

向谷地 メンタルヘルスの領域でずっと仕事をしてきて、大変さを抱えた人たちと付き合っていくうちに、だんだん分かってきたのは、想像以上に自分という人間は厄介だということです(笑)。当事者たちよりも、自分自身の厄介さに気づくことがあるのです。自分の厄介さを素直に受け入れて、大変さを抱えた当事者たちの生きていくプロセスや、困難から立ち直るプロセスから自分が多くのことを学んでいることにも気づかされます。

 

悩むことの可能性を求め続けて

 

向谷地 世の中では健常者が多数派だと思われていますが、実はかなり我慢して多数派にしがみついている人も多いのではないか。例えば統合失調症の人が、「私は他の人が見えないものが見えたり、聞こえない音が聞こえたりして、どれが本当か判断つかないような現象がいっぱい起きます」などと話し始めると、健常者と思われている人でも、「実は私も幻聴が聞こえることがあります」とか、「最近、白鳥がネクタイをして電線に留まっているのを見たことがあります」とか(笑)、変なことを言い始めるのです。つまり、健常者でも統合失調症の症状と似たような経験をしながら、それに蓋をして生きている人がいっぱいいるんですね。

中山 社会で生きている限り、誰もが仮面をかぶって何らかの役割をこなしているわけですが、その仮面を剥がされて裸の一個の人間になるとどうなるか。そのことの豊かさもある反面、恐さもすごくあるような気がします。

向谷地 私は、いつの頃からか、“悩むことの可能性”を考えるようになりました。そのきっかけは、中学の時に母から誘われてキリスト教の教会へ行くようになったことです。そこで聖書の話を聞くうちに、イエスという人が歩んだ道筋に大きな影響を受けました。イエスの旅の物語は、トラブル続きで苦労するばかりの惨めな旅です。「べてるの家」でよく使われる言葉で言えば「順調に苦労続き」なんですよ(笑)。

その影響を受けていつも考えていたのは「思いっきり苦労をしたい」ということです。苦労するにはどうしたらいいかといつも考えている変な若者でした。大学に入ってからも、一人暮らしをして人一倍苦労をしようと、親の仕送りを断ったり、就職して浦河の町に住んでからも、町でいちばん困っている人に会いたいと思って保健師さんに紹介してもらったり、常にいちばん困っている先に大切なものがあるような気がするというのは一貫しています。

中山 イエスが旅の途中で出会う人たちも、病気で困っていたり、ハンセン病者のように差別されている人が多いですね。そういう人たちが生きる世界に大事なものを見出していく姿勢に、向谷地さんの活動の原型があるような気がします。

向谷地 社会の中で差別され、周縁化されている人々の中に何か大切なものが託されている。それは、その人たちが軽んじられる社会に対する警鐘でもあり、その弱い人たちに「あなたがたこそが幸いな人である」と呼びかけ、力づけるようなメッセージが一貫してあるように思います。

 

椅子取りゲームのような社会に価値観の転換を

 

向谷地 精神科医のヴィクトール・E・フランクルが始めた「ロゴセラピー」という心理療法では、人が抱えるいろいろな病気や心配事で見えにくくなっているその人本来の人間としての苦悩にちゃんと目を向け、その苦悩を受け入れられるようになることが治療の目標なんですね。私もそれに共感します。

中山 統合失調症の方に幻聴が聞こえるというのも、その底には人間としての普遍的な苦悩があるのでしょう。でもその苦悩に向き合うのは大変で、それが幻覚や幻聴という形になって出てくる。そこに表現されていることを言葉にしていくのが、「ロゴセラピー」で大切なことなのかな、と思います。

私は自分の身内がアルコール依存症だったのですが、その原因が意志の弱さにあると思ってきて、自分についても自らを統御しきれない弱い自分を嫌悪するという傾向が強くありました。だから主体的に意志決定できる自分であろうとしてきたんですね。しかし、ある人から言われたのは、「あなたは主体性とさかんに言うけれども、仮にその言葉を使うならば、それは現実を前にしてうずくまってしまうような弱さの中にあるんじゃないかな」ということでした。それはやはり、強く自律的であれという価値観に絡めとられて、自分の中の弱さや悲しさ、寂しさといった大事なものを見失っていたのではないかと思います。

浄土真宗を開いた親鸞は、「悪人成仏」と言われるように、世の中で悪とされるような弱さの中にこそ如来の本願がはたらくということを言います。これは向谷地さんの言葉で言えば「弱さの中に力がはたらく」ということでしょうか。いずれにせよ、そういう言葉には近現代の価値観を転換するような力が秘められていると思いますし、これからの社会で生きていく力になるのではないかと思います。

向谷地 現代は、みんなが頑張って努力して、限られた幸福のパイをひとつでも多く奪い取ろうという、椅子取りゲームのようなものに社会全体がなってしまってるでしょう。その点、中山さんが言われるような人生観や世界観は本当に大事だと思いますし、それに基づいた社会の発展があっていいような気がしています。

 

 

向谷地生良 むかいやち  いくよし

1955年青森県生まれ。北星学園大学文学部社会福祉学科卒業。大学卒業後、浦河赤十字病院にソーシャルワーカーとして勤務。精神障害のある当事者たちと教会の一室に住み込み、1984年にその人たちと「浦河べてるの家」を設立。北海道医療大学教授を経て、現在、社会福祉法人「浦河べてるの家」理事長。『新・安心して絶望できる人生』(一麦出版社)、『技法以前―べてるの家のつくりかた』(医学書院)、『増補改訂「べてるの家」から吹く風』(いのちのことば社)など著書多数。

 

中山善雄 なかやま よしお

1976年埼玉県生まれ。早稲田大学理工学部卒業。大谷専修学院卒業。大谷専修学院指導補を経て、現在は真宗大谷派教学研究所研究員。真宗大谷派三条教区寶國寺衆徒。