東本願寺出版

📚「聴く」ことを通して、 この現実を捉えなおす。(同朋_2023-06)


昨今、関連書籍が続けて刊行され、雑誌で特集が組まれるなど、ひそかな注目を集める「フィールド・レコーディング」。その実践者、研究者である柳沢英輔さんと、東日本大震災以降、チャリティーライブを続けている石田悠晃さんに語り合っていただきました。

 

録音のノウハウより考え方

 

石田 フィールド・レコーディングという言葉は最近少しずつ認知されてきたようですが、知らない方も多いと思います。どのように定義されますか?
柳沢 広く言えば、レコーディング・スタジオ以外のさまざまな場所で音や音楽を録音すること、またその録音物のことです。想像しやすいのは、ネイチャー・レコーディングだと思います。つまり、川のせせらぎや野鳥のさえずりなど、野外の自然音を録音したものです。昨今そういう音に癒しを感じるという方は多いですよね。しかし、それはあくまでもフィールド・レコーディングの一部です。
そもそもフィールド・レコーディングを実践している方には、人類学など研究のために録音する方、映画やテレビ、ラジオ番組の制作で録音する方、音楽家やアーティストとして録音する方など、実にさまざまな背景があります。だから、多種多様な魅力があるんです。
石田 柳沢さんの著書『フィールド・レコーディング入門 響きのなかで世界と出会う』(フィルムアート社、2022年)をとても興味深く読みました。副題に「世界と出会う」とありますね。柳沢さんがフィールド・レコーディングという実践を通して何をされているのかというと、この一言かなと思ったんです。
私たちは自分に合わせて、この現実を切り取ってしまっていないだろうか。私にはずっとそんな思いがあります。私たちは自分の視点という限界のもとで現実を捉えようとしますが、実際の現実は私たちの思いなんか、はるかに超えています。思いがけない優しさだったり、厳しさだったり、もっと色々な側面がある。それで、柳沢さんの本を読んで思ったのは、なるほど、自分は世界と出会いたいのだな、と。自分のモヤモヤを言葉にしてもらえたように感じました。
柳沢 その感想はうれしいですね。私が書きたかったのは、録音のノウハウではなくて、考え方です。『フィールド・レコーディング入門』という題を見て、良い音を録るためのマニュアル本だと誤解する方がいるかもしれませんが、そういう本であれば私ではなく、録音を職業にされている方が書くほうが適任だと思います。私の関心はやっぱり、ウェイ・オブ・シンキング、考え方のほうです。
とはいえ今回の本では、録音初心者のためのコラムも書いて載せています。考え方と実践という、そのあたりのバランスは少し気にしましたけれど、どうすれば良い音が録れるかということだけではなく、フィールド・レコーディングという実践のなかで考えられてきた、さまざまな思索にまずふれてほしい。それによって、私たちは今まで気づかなかった世界に出会うことができる。そういう面白さを伝えたかったんです。

 

「音」に夢中になったきっかけ

 

石田 そもそも柳沢さんは、どんな音楽を聴いてきたんですか?
柳沢 中学生のころはスピッツとかMr.Childrenとか、好きで聴いていました。最初にJ-POPとは少し違う音楽にチャレンジしたのは、アメリカのBeckというアーティスト。『POPEYE』という雑誌で、今一番イケてる音楽はこれだ! みたいな感じで、Beckの『Odelay』(DGC、1996年)というアルバムがオススメされていて。やっぱり背伸びしてみたいじゃないですか(笑)。初めて聴いた時は魅力がわからなかったんですが、何度も聴くうちにのめりこんでいった。それで音楽にハマって、兄がバンドをやっていたので色々とCDを貸してもらったり。Sonic Youthというバンドなど、いわゆるインディーロックを聴いていました。
そのあと、私が高校生から大学生になる頃には、批評家の佐々木敦さんが実験的な音楽をふくめ、これまで聴いたことがないようなアーティストをどんどん紹介されていました。そういう導きもあって、大友良英さん(本誌2021年3月号巻頭インタビュー)の実験的な即興演奏だったり、聴く音楽の世界が広がっていきました。
それで色々聴いていくうちに、もしかしたら自分はメロディというよりも響きの質感みたいなものに惹かれているのかな? と思い始めた。例えば、私はドラムが大好きなんですが、スネアドラムの音ひとつでも、録音するエンジニアによって全然、音が違うんですよ。そうなると、音楽を聴いていても、頭のなかで分解して、音単位で聴くのが楽しくなってきたんです。ボーカルやギターの音を中心に聴くのではなく、それぞれの楽器のこの音色がいいな、という感じ。そういう聴き方がのちにフィールド・レコーディングに出会う素地になったと思います。

 

録音、そしてゴングと出会う

 

石田 そんな柳沢さんが、フィールド・レコーディングに出会う原体験のようなものがあったんでしょうか?
柳沢 大学生の頃、タイの伝統的な楽器を習ったり、パソコンで音楽を作ったりしていたのですが、その時はまだ、野外などで音を録っても、あくまでも音楽の素材として使う、という発想でした。それがひっくり返ったのは、バイノーラル録音に出会ったのが大きかったと思います。


バイノーラル録音というのは、頭部だけのマネキン(ダミーヘッド)の耳のところにマイクを設置して音を録る、ステレオ方式の録音のこと。そうやって録った音をイヤホンで聴くと、とても立体的に聞こえるんです。試しに自分の耳につけるタイプのバイノーラルマイクを海外から取り寄せて、家のまわりを散歩して音を録ってみました。それを聴いたら、「日常って、こんなに音があるのか!」って圧倒された。自分の耳で聴くよりはるかにたくさんの音が聴こえたんです。音楽ではなくても、録音した音をずっと聴いていられる、と気づいた瞬間でした。それがフィールド・レコーディングとの出会いですね。
石田 柳沢さんはフィールド・レコーディングの実践者であると同時に、ベトナムのゴングという楽器文化の研究者でもありますよね。今年2月には、5年ぶりにベトナムに行かれたとか?
柳沢 そうなんです。ゴングの音を初めて聴いてから約20年、ずっと魅了されています。ゴングを作るところ、調律から演奏まで全部が面白い。今回の調査では、調律の勉強もしたのですが、調律師の方が住むところまで350キロくらいの距離を車で会いに行って。ベトナムではゴングの調律技術を受け継ぐ方が少なくなっているそうで、私が現地で活動しようかとも思うくらいです。
ゴングは一人一音で演奏します。例えば、ある儀礼では、十数人の奏者がそれぞれ異なる音の高さのゴングを手に霊廟のまわりを歩きながら演奏します。こういうパフォーマンスは、文章や写真だけでは十分に伝えられません。まさに現場(フィールド)で記録(レコーディング)するのにふさわしい光景。人類学的関心と言うと大げさに思われそうですが、こういった文化の記録には大事な意味があります。

 

録音に刻印される主体性

 

石田 録音と言うと、単に客観的な記録のように思われがちですが、柳沢さんは、録音者の主体性が録音には明確にあると言われています。どの場所から、いつ録音するのか、録音のどこを切り取るのか。こういったことに録音者の思いがちゃんとある、と。考えてみれば、写真だってそうです。どの場所から、いつ撮るのか、どこを切り取るのか。同じ現実を見ても、人それぞれで全く異なる。それと同じで、録音作品にも意図や文脈があるということですね。
柳沢 例えば、角田俊也さんというアーティストがいます。特殊なマイクを使うと、モノのなかを伝わる振動を録音することができるのですが、角田さんは、港に停泊している船のエンジン音が振動として伝わってくる様子を埠頭の路面に置いたマイクで録音した音源などを発表しています。角田さんは「観察点が出来事を決める」と言います。このような作品は、いつどこで音を録り、録った音のどの部分を切り取るかということに自覚的でなければ成立しません。
彼の作品は、録音自体はほとんど編集されていない。トラックの終わりもブツッと切れていたりします。しかし、どの作品を聴いても、角田さんの世界へのまなざしみたいなものが伝わってくる。もう最初の数秒を聴いただけで「もしかしたら、角田さんの作品かな」とわかるんですよ。その理由は、うまく説明できないんですけれど、角田さんの作品を聴いた時、私も私なりの視点で、この世界の音を捉えることができるんじゃないか、と思えたんです。

 

モニター時の独特な感覚

 

石田 柳沢さんの本で興味深く感じたのは、「川の音を録音していると、川と私の身体の関係性が裏返しになり、川の内側から音を聞いているかのように感じられることがある」、あるいは「森のなかでじっと録音をモニターしていると、鳥や虫などの声の響きが自分の身体に浸透し、私自身が森の一部になったかのような感覚を覚えることもある」(前掲書75〜76頁)と書かれていたことです。
私は岩手県の田舎に暮らしていて、とても静かなところです。冬の野外で耳を澄ますと、雪が降り積もる、ほんのかすかな音が聴こえたりします。どこかそれに近い感覚かなと頷きながら読みました。
柳沢 そうかもしれません。録音時にマイクが拾う音をその場でヘッドホンで聴くこと、つまり録音をモニターしていると、音が入り込んでくるというか、自分の身体がその環境に開かれていく感覚というのかな。そういうことを感じるんです。それは録音を後で聴くという行為とは全然違う。私にとってフィールド・レコーディングの醍醐味のひとつなので、現場では可能なかぎりモニターします。
モニターの時は、ヘッドホンでマイクが拾う音にじっと耳を傾けているわけですが、当然それ以外の情報も感覚しています。その場の温度や湿度、視覚や嗅覚、触覚など、五感が自然と総動員されて、聴くという行為を行っているのかもしれません。モニターの魅力って、あんまり言う人がいないので不思議ですが、私はモニター中の体験をすごく大事にしています。モニター音の質でレコーダーを選ぶくらいです。
しかし、モニターの時の感覚がずっと続くとしたら、つらいでしょうね。私は少し聴覚が過敏なところがあって、ホテルなどに泊まる時、時計の音や冷蔵庫の音を聴くと、スイッチが入ってしまって眠れないんですよ。だから、常に聴くということに徹していたいかというと、そうではない。むしろ普段は音をシャットアウトしていて、レコーダーを手にするとスイッチが入るくらいがちょうどいいんです。
石田 それはわかる気がします。私の感覚で言うと、私たちが生きる世間には生命の叫びというか、悲痛な声というものは絶えずこだましていると思うんです。それを常に全身で受けとめられるかというと、私は到底及ばない。だから知らず知らずのうちにシャットアウトしてしまっている。これはなかなか悩ましいところです。
モニターの時の体験について言えば、やっぱり聴くといっても、その場全体から受けるものですよね。先日、私が住職として預かっている寺で、和ろうそくの灯りだけで儀式を勤める機会があったんです。ろうそくの灯りにはゆらぎがありますよね。それがお堂の金箔に反射して、すごく厳かな感じになる。それだけでも視覚的にかなり迫力がありますし、それに儀式ではお香を焚きます。視覚だけでなく嗅覚もふくめ、五感全体に訴えるものがある。そういった場でお経を拝読するのです。そうすると、自然と教えを聞く準備というか、身構えになれる。柳沢さんの本にも、聴くというのは耳だけに特権的な行為ではなく、身体全体で捉えるべきではないか、といった指摘がありましたね。
柳沢 仏教の儀式でも用いられる雅楽の楽器、例えば篳篥ひちりきなどの音には、超高周波の音が多く含まれています。雅楽は一度、録音した経験があるのですが、すごかったですよ。人間の耳は20キロヘルツ以上の周波数は捉えられないのですが、それをはるかに超える60キロヘルツとかの音が普通に出ています。
脳科学者の大橋力さんの研究によると、そういった音は人間の「基幹脳」(中脳・視床・視床下部などの領域)を活性化させ、心身に良い影響を与えるとされています。それを「ハイパーソニック・エフェクト」というのですが、このような超高周波の主な受容部位は耳ではなく、身体全体です。つまり、音と言えば耳だけで聴くように考えますが、実際には皮膚や骨、内臓を含む私たちの身体全体をゆさぶられて聴くということが成り立っている。雅楽に限らず、川のせせらぎなどにも超高周波の音は含まれていて、森林浴などで癒されたと感じるのは、その影響もあるようですね。

 

自然音は癒しなのか?

 

柳沢 ところで、はじめにお話ししたように、フィールド・レコーディングのなかで多くの方が身近に感じるのは、おそらくネイチャー・レコーディングです。自然音の録音には何となく癒しのイメージがついてまわるのですが、私は少し懐疑的です。というのは私自身、自然のなかで録音しますが、現場で癒しを感じることはほとんどない(笑)。むしろ恐怖を感じますよ。森のなか、一人で音を録っていると、ものすごく色々な音が聴こえます。猿が「ギャー」って鳴くだけで結構、身の毛がよだつんですよ。
東京の奥多摩町にある日原鍾乳洞で録音した時なんて、真っ暗な洞窟のなかで何時間も音を録るわけです。そうすると、妙な気配を感じたりとか(笑)。そういう体験があるので、自然の音が癒しにつながるかというと、ちょっと違うなという実感があります。
石田 じっくり聴いてみると、自然の音というのは決して美しいだけではありませんよね。柳沢さんが録音した作品などを聴いていると、時として不気味だったり、さまざまな印象を受けます。何というか、私たちが抱く自然のイメージそのものがゆさぶられる。
柳沢さんが野外で録音している時は、姿は見えなくてもそこには動物たちが潜んでいたりする状況ですよね。例えば、犬や猫は、人間より広範囲の周波数の音が聞こえていたり、人間よりも生き死にに関して感覚が鋭い。
柳沢 そのとおりですね。動物にとって、音というのは基本的に危険を知らせる信号なんですよ。人類が森のなかで生活していた時には視界に限界がありますから、危険な動物の存在をまずは聴覚で判断したわけです。だから、原始的には視覚より聴覚が先だったはず。それを思えば、自然音が与えてくれるのは癒しだけじゃない。癒しを感じるのは悪いことではないのですが、それはあくまで商品化された自然音です。聴く側はきれいな部分だけ耳にすることができますが、実際にその音を自然のなかで録っている人は癒しなど感じていないのでは? と思います。

 

録音を通して社会を感じる

 

石田 柳沢さんの本では、フィールド・レコーディングのさまざまな実践が紹介されています。例えば、アンガス・カーライルというアーティストが、社会人類学者のルーパート・コックスと共に制作した『Air Pressure』(Gruenrekorder、2012年)という作品は、成田空港の拡張される敷地に囲まれながら、有機栽培で野菜などを育てている農家の生活を録音したものだそうですね。成田空港の建設に反対する社会運動が、この作品の背景にはあるわけですが、録音という切り口は、とても新鮮に感じました。
柳沢さんが指摘するように、空港の敷地と農家の敷地は視覚的には分けられているけれど、音に注目してみると、飛行機が離発着時に発する、とてつもない爆音などは、敷地の区分に関係なく鳴り響いていることがわかる。だから、視覚ではなく、聴覚を通して、どんな音のなかにその農家の方々が身を置いているか、まず感じてみる。すると、それだけで伝わってくるものがあるのではないか、と。
このスタンスはとても大事だと思いました。というのは、私たちの宗派は教えを聞く、つまり、聞法ということを重んじており、「聞く」ということをよく言います。それはとても大切なことなのですが、ややもすると相手の話を「聞く」のではなく、相手から「聞き出す」というかたちになってしまう。私自身、岩手県に身を置いていて、東日本大震災の時には色々な声がけを頂戴しました。しかし、当時感じたのは「聞く」というかたちで、極めて私的な領域に踏み込まれる場合があるということ。「聞く」ことが大事だからこそ注意しないと、とても暴力的なことになってしまう。やっぱり「聞かせていただく」という感覚を忘れてはだめだな、と思います。
柳沢 それは考えさせられますね。録音という行為には暴力的な側面がありますから、私もそのことは意識しています。特に音源を公開する場合、相手との関係性など、配慮すべき点はたくさんある。例えば、外国の方から、日本の市場のにぎわいを録音してほしいと言われたことがあったんです。日本語を解さない方にとって、市場の喧噪はある種の環境音でしかない。しかし、聴く人によっては意味がわかってしまうわけで、結構生々しい内容だったりする。そういう音はカットしないといけない。
社会問題をあつかう作家には、ピーター・キューザックというアーティストもいます。アンガス・カーライルと同じロンドン芸術大学に所属する研究者でもある方で、チェルノブイリ原発事故の影響から、ほとんど放棄された村で暮らす人々の生活を録音というかたちで切り取った作品などを発表しています。彼には、録音を「聴く」という行為によって、文字や映像とは異なる貴重な洞察を得られるという考えがあり、それをもとに「ソニック・ジャーナリズム」という思想を提唱しています。
こういった作品は興味深いのですが、社会問題と直に関係するか否かにかかわらず、そもそも「聴く」ということ自体にとても力があると考えています。私たちの社会は依然として視覚中心。スマホにしても、都市生活のなかでは、あらゆるところにディスプレイがあって、視覚がメインです。そんな世界のなかで「聴く」ことがもつ面白さ、大切さを発信したり、そこに意識を向けることには、私たちの視覚中心の価値観を転換させる意義があると思います。

 

「聴く」から広がる世界とは

 

柳沢 この世界には超音波など、人間の耳で聴くことができないさまざまな音があります。イルカやコウモリが超音波でコミュニケーションをとるのは有名ですよね。これらは周波数を変換すれば、聴くことができます。例えば、コウモリ探知機を使うと、コウモリが発する超音波を変換できて、聴取も録音も可能です。聴こえていないけれど、実際にこの世界で鳴り響いている音があるということです。水中の音などもそうですね。普段は聴こえませんが、そこにも音の世界はある。


つまり、「聴く」ということを考えていくと、人間が感覚していないだけで、人間以外の世界がこの世界に存在している、ということがわかるのです。そういったことを知るのは大事です。昨今は気候変動など、人間中心主義的な考え方によって実際に弊害が生じています。だから、「聴く」ということを通して、私たちは人間中心主義的な世界観を脱して、新しい生き方を模索する契機が得られるのではないか、とも思うのです。
石田 録音という行為は興味深いですね。そもそも存在しない音は録ることができないのですから。私たちは人間が感覚し得る世界がすべてであるかのように錯覚していますが、人間中心的な世界観からは見えてこない、聴こえてこない世界がすでにここにある。
親鸞は、浄土という世界を私たちと無関係にただ単に遠くに存在するのではなく、すでにこの世界にはたらきかけている、と捉えていました。浄土は彼岸という言葉でもあらわされるように、この世界と隔絶しているのですが、そのはたらきは私たちが生きる世界にすでにある、と。
柳沢さんは録音という実践を通して、この世界にすでにあるにもかかわらず、なかなか認識が及ばない側面を探究されています。私の場合で言えば、南無阿弥陀仏という念仏を通して、この世界のゆたかさをあらためて感じていきたいとそう願っています。

*一般には「聴」には集中して耳を傾ける意、「聞」には自然と耳に入る意がある。仏教経典においては両字共に用いられ、「聴聞」の語もある。本特集では主に「聴」を用い、仏教に関連する場合につき「聞」を用いた。

 

柳沢英輔 やなぎさわ えいすけ
1981年東京都生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門は音文化研究、映像人類学。ベトナム中部地域の金属打楽器ゴングの文化を研究すると共に録音・映像作品を制作、発表。著書に『フィールド・レコーディング入門』、録音作品に『Wetland』(immeasurable、2020年)など。

石田悠晃 いしだ ゆうこう
1977年岩手県生まれ。真宗大谷派東北教区花巻組圓德寺住職。ミュージシャンとして約10年の活動を経たのち、真宗大谷派の学事施設、大谷専修学院を卒業。東日本大震災を契機にそれ以降、継続的にチャリティーライブをおこなっている。本誌では、2023年3月号の座談会「親鸞の教えを胸に現代を生きる」に登壇いただいた。