東本願寺出版

📚ケアにとって大切なのは、相手の話を聞くこと。

今、注目を集めるケアの世界は、どのようにこれからの人間と社会を変えていくのか…?フェミニストの立場からケアの大切さや倫理を論じる岡野八代さんと

僧侶として働きながら4人の子を育てている七尾真澄さんによる対談です。

 

「ケア」という考え方と出会って

 

七尾 僕は、大阪のお寺で僧侶をさせていただきながら、上は15歳から下は4歳まで、4人の男の子の子育てに関わっています。

以前、シンポジウムで岡野さんのお話をお聞きして以来、「ケア」ということが自分の中で大きな課題になってきました。まず自分なりにそれをどう受け止めてきたかお話ししますと、僕にとっていちばん身近なケアの課題は夫婦関係にまつわることなんですね。

僕には、大正生まれの祖父と祖母がいました。この2人はまさに家父長制そのものの関係で、祖父が権力者となって妻や子どもを支配し、主従関係になってしまっているわけです。その2人を思い出すと、祖母はいつも何かしら傷ついていました。祖父が白と言えば白、黒と言えば黒。祖母がノーと言うのを聞いたことがありません。絶対服従でした。

そのように男が権力を持って家族を支配下に置くというあり方は、女性を傷つけるだけでなく、男性もまた腫れ物に触るように扱われ、結局は孤独に陥ってしまう。仏法で言う地獄とは、実は孤独の世界なんですね。僕はそういう夫婦にはなりたくないと子どもの頃から思っていたので、連れ合いとはそうじゃない関係をつくりたい。そこで今回、ケアという考え方と出会って、それがすごくくっきりしたように思うのです。

つまり、家父長制的な主従関係ではどちらも幸せになれない。それに対してケアというのはパートナーになることなのかな、と思ったんですね。パートナーになってお互いにケアし合う。そういうところに夫婦の幸せがあるんじゃないかと。僕としてはいちおうケアということをそのように受け止めているのですが、ここで改めて岡野さんからケアとは何か教えていただければと思います。

岡野 ケアについて私が書いた文章などもいろいろ読んでくださったそうで、ありがとうございます。まずケアとは何か、ということからお答えしましょう。

ケアにはいろんな定義がありますが、まずケアとは、他人の手を借りなければ生きていくことが困難な人のために、身の回りの世話や安全の確保を提供するなど、その人の必要を満たすような営みや実践のことです。その場合大切なのは、ケアを受ける人が何を必要としているかに気を使い、関心を向けるということです。

そもそも人間は、自分では全く何もできない無力な状態で生まれてきますね。さらに赤ちゃんだけでなく、病人や高齢者もそういう状態になることがあります。ですから、人間社会にはそういう無力な存在に付き添う人が必ず必要になるわけです。これはもう、人間が生きていくための条件だと思います。

 

 

なぜケアの仕事が軽視されてきたのか

 

七尾 つまり、人間は誰でもケアされなくては生きていけないわけですね。でも、そんな大切なケアの仕事が社会では軽視され、従事する人の給料が安かったりする。それはいったいどうしてなんでしょうか。

岡野 先ほど七尾さんが「家父長制」という言葉を出してくださいました。家父長制のもとでは、男性(父親)が権力をもちますから、家族の中に、あるいは社会の中に人に依存しないと生きていけない人がいる場合、権力者にとって都合の良い形で誰かに面倒を見させるわけです。その結果、例えば今の日本社会では、女性が無償で子どもを育てるのが当たり前という仕組みになっていますね。さらに高齢者の介護も、多くの場合女性が面倒を見ないといけない仕組みになっている。その仕組みをつくってきたのが家父長制なんですね。

七尾 今回、ケアについて学んでいく中で家父長制という言葉を初めて知りました。その起源はとても古くて、古代ローマ帝国の時代からあったそうですね。

岡野 そうです。実は「家族」を意味する「ファミリー」という言葉の語源となった「ファミリア」というラテン語は、奴隷とか従者という意味なんですね。つまり、ファミリーというのは、もともと古代ローマの時代には主人の持ち物だったわけです。現在はその当時から比べれば民主的な社会ですから、家族も本当は変わらなければいけなかった。ところが、家族というのは自然に形成されたように見え、伝統的に引き継がれてきた制度ですから、意識的に改革することが難しい領域なんですね。

ともあれ、家父長制の下で、特に家庭内では女性が無償でケアをしなければいけない立場に置かれてきました。そうなると、女性たちはケアという重労働を担い、外で働くことができないため、社会的な報酬を得られない。それが、男性社会の価値観からすると、報酬を得ていないのは能力がないからだという言われ方をされてしまう。能力がないとされてきたからケア労働を担わされていたのか、ケア労働をさせるために女性には能力がないとされてきたのか。これは“卵が先かニワトリが先か”と同じように深く絡み合った構造的な問題で、どこか一か所を変えるだけでは直らないような仕組みになっているんですね。

そして、女性たちの多くが家庭内でケアを無償で提供してきたのと同じように、社会の中でも看護や介護、保育といったケアの仕事は女性が担うことが多く、しかも有償であったとしても低賃金で、したがって担い手が不足してきた。だから、新型コロナのパンデミックが続く中で、社会全体がケア不足に陥り、そのことを意識せざるをえなくなったわけです。

 

「ケアの倫理」の研究が見出してきたこと

 

七尾 岡野さんは、そうした社会のあり方を批判するご発言の中で、「ケアの倫理」という言葉をよく使われますね。この言葉がちょっと難しくて、「倫理」というのは人の生き方に関わることかな、と思うのですが、どういう意味か教えていただけますでしょうか。

岡野 「ケアの倫理」の出発点は、今お話ししたように、これまで女性たちがあまりにも不当に担わされてきたケア労働について、そもそもケアとはどんな営みなのか、ケアを担ってきた人が貶められるのと同時に、ケア労働自体も評価が低いのはなぜか。そうしたことが研究されるようになったわけです。ケアというと、何となく優しくて調和的なイメージがありますが、「ケアの倫理」の出発点には、これまでケアを担う人たちが不当な搾取を被ってきたという不正に対する厳しい告発があるということを忘れてはならないと思います。

七尾 なるほど。

岡野 そこで、ケアの倫理の多くの研究者たちが見出したことのひとつは、ケアの仕事はその対象の多様性が大きいため、その成果を評価するのが難しいということです。七尾さんも4人のお子さんを育ててこられたということで、よくご存じだと思いますが、子どもというのは一人ひとり全く違いますよね。ですから、その個別性を重視して、それぞれの子に応じたケアをなさっていると思います。

七尾 そうですね。

岡野 例えば会社のような男性社会の仕事なら、一緒に働いている人はみな同じぐらい能力があって、同じような訓練をすれば一律に仕事ができるようになると想定されていますね。ところが、ケア労働の場合は、同じケアを提供しても、それぞれ全く違う反応が返ってくる。例えば子どもを相手に1時間ケアしたとしても、その反応は様々で、労働が報われるかどうか予測がつかないし、評価できない。ある子どもにはうまくいったことでも、他の子だったら失敗に終わるかもしれない。ですから、ケアの仕事は男性社会の仕事に比べて非常に評価されにくいわけです。

ケアをする人の多くは、マニュアルがない中で試行錯誤しながらやっているわけですよね。その中でも、特に親の仕事ってだいたい失敗するでしょ?  七尾さんだって、4人のお子さんを育てて、ご自身が理想とするような人に育つ子は1人もいないはずです(笑)。

七尾 まったくそうですね(笑)。

岡野 しかし、にもかかわらず、ケアをする人は、してはいけないこととしてもいいことを見分け、してはいけないことを踏みとどまるような倫理観を持っている。これもケア労働の特徴なのです。

 

虐待の一歩手前で踏みとどまらせるもの

 

岡野 そもそも、ケアする人とケアされる人との間では、力の差が非常に大きいですよね。例えば親は子どもに対して圧倒的な力を持っています。にもかかわらず、親が子どもたちを力で支配し抑圧しようとするかと言えば、必ずしもそうはならない。もちろん、子どもを支配してしまう親もいて、ひどい場合には虐待が起きたりもするわけですが、多くの場合は大きな倫理観がはたらいて、一歩手前で踏みとどまる。このことも、ケアの倫理の研究者たちが見出したケア労働の特徴のひとつです。

七尾 僕はその倫理観が崩れそうになる経験をしたことがあります。それは、連れ合いが2人目の子どもを妊娠した時、切迫早産(せっぱくそうざん)しかけたんですね。そこで、彼女は実家の近くにある広島の病院で1か月ぐらい入院し、その間、僕は当時2歳だった長男と大阪で二人暮らしをしました。そうすると、最初のうちはよかったけれども、1か月もたつと子どもがちょっと言うことをきかなかっただけで腹がたってくるんですよ。そして、子どもを暴力や権力で押さえつけるようなイメージが自分の中に湧いてくる。そうなると、ニュースなどで耳にする幼児虐待のひどい事件が、他人ごとではないと思えてくるんですね。

岡野 それは、とても貴重な経験をされたと思います。そういうケアのしんどさは、経験してみないと分かりませんから。

ケア労働が評価されない理由のひとつは、ケアする人がケアしている相手に振り回されてしまうからなんですね。男の仕事というのは、8時間働けばこれだけの成果があるといった形で、自分でコントロールできることが評価されるわけです。しかし、ケアをする人は一般の仕事のようにコントロールできず成果も不確かで、「お前は子育てだけしてて、いいな」などと言われてしまう。ケアをしない人には、その大変さが分からないんですね。

七尾 本当にそうです。その経験をするまでは、寒い冬の朝早く寺の仕事で出かける時なんか、連れ合いは暖かい部屋で子どもとテレビを見てられていいな、なんて思ってたんですよ。ところが自分が子どもの面倒を見る立場に立ってみると、お参りに行かせてもらっている方がよっぽど楽です(笑)。仕事なら、家に帰ってきたらスイッチを切れるけど、子育てというのは24時間本当に絶え間がなくて、自分だけの時間が一切取れないんですね。それでいて、親ならやって当たり前と思われているから、評価もされませんし。

 

家事や子育てを分担することの大切さ

 

岡野 さっきの七尾さんのお話にあったように、育児というのは暴力を引き起しやすい側面がありますね。相手は弱い子どもですし、誰も見ていない密室で行われる。ですから、親と子の1対1で24時間育児をしていると、親は持たないんですね。ですから、大切なことは分担すること。七尾さんが夫婦はパートナーでありたいとおっしゃいましたが、「パート」は部分という意味ですから、お互いに分担し合うことがパートナーです。支配や服従と全く違うのです。

けれども、子育ては肉体的にも精神的にも辛い仕事ですから、実際には2人でも難しい。だから、子育ては社会で分担しようという発想になるわけです。これは虐待を防ぐためにも大切で、できればお母さんも週休2日にできればいいな、と思いますけどね。

七尾 ただ、連れ合いと話をしていると、家事や子育てを分担することについて、女性の方がブレーキをかけている面もあるなと感じることもあるんですね。

どういうことか言いますと、僕は勉強会とか友達のライブなどで夜出かけることもあるわけです。そういう時、僕は夫婦がフェアなパートナーでありたいと思っているので、連れ合いに対して、「君もやりたいことをやってほしい。僕もそれを応援したいし、どこかに出かけるならその間の育児や家事は引き受けるから」と伝えたんですね。その方がこちらも気持ちよく出かけられるから、と。

ところが、連れ合いは「子どもをおいてまで何かをやろうと今は思わない」と言うのです。僕からすると、もっとお互いにケアしあう関係になれたらな、と思うんですが。

岡野 そうですね。これは、七尾さんのお連れ合いがそうだという話ではありませんが、社会の中で弱い立場にある女性たちは、男性社会の価値観にずっと押さえつけられているので、その価値観を内面化してしまい、そこに自分のアイデンティティをつくってしまうことがあるんですね。そうなると、その価値観にしたがって行動することがいちばん自然に感じられるようになっていくわけです。

それでもやはり、一人の人がひとつのことをずっとやるのはよくありません。社会で必要なことはできるだけ多くの人と平等にシェアしていく。そうした状況をつくっていくことが、私の考える民主主義です。

 

お寺の仕事とケアに共通する「聞くこと」の重要性

 

岡野 七尾さんが最初におっしゃったとおり、家父長制の下では家族はどうしても支配と従属の関係におかれるわけですが、ケアする人とケアされる人との関係は支配・被支配の関係ではないのです。ケアの場合は、あくまでケアされる人が中心で、ケアする人は支配者になってはいけない。ケアする人にとって大切なことは、ケアされる人の話を聞くことなんですね。これはある種の宗教的な倫理観と似ているところがあるのかもしれません。

七尾 僕は、お寺の仕事は基本的に人の話を聞くことだと思っています。そういう意味では、「聞く」ということでお寺もケアの一端を担ってきたのではないか。例えば、葬儀やお通夜の場では、ご遺族の方の大切な人を亡くした悲しみを聞かせていただくのが僧侶の仕事です。そして、葬儀の後に、毎月ご遺族の家にうかがう「月参り」では、日頃感じている不安やしんどいことを聞かせていただいていて、今で言うグリーフ・ケアの役割を果たしてきたのかもしれません。それだけでなく、お寺に来られたおばあさんの愚痴を丁寧に聞かせてもらうことだって、ケアだと思うのです。

しかし、それではお寺がケアということをこれまで大切にしてきたかと言うと、そうとばかりは言えません。例えばこんなことがありました。お寺で法事があった時、若いお母さんが赤ちゃんを抱いて本堂に座っておられたんですね。そしてお勤めが始まると、途中から赤ちゃんが大声で泣きだしたわけです。すると、お母さんは周りの空気を察して、赤ちゃんを抱いて外へ出てしまわれたのです。

さて法事が終わって、みんなでお茶を飲んでいると、「ああいう時は、周りに迷惑をかけないように自分から外へ出るのが日本人の礼儀だ」といったことを年配の男性が言われて、僕は首をひねりました。年長者は「若い人がお寺に来てくれない」とよく嘆くけれど、そんなふうに赤ちゃんやお母さんを仏法の場から追い出しておいて、赤ちゃんが育ったら帰ってこいって、そんな都合のいい話があるかって…。そのことがあってからは、法事の時に小さな子ども連れの親御さんを見かけると、「お子さんが声を出しても気にしないので、どうぞお気楽に」と声をかけるようにしています。

そのように、お寺でもケアが十分できていない面があるわけです。浄土真宗のお寺は阿弥陀如来を本尊にしていますが、阿弥陀さんといえば「摂取不捨」(せっしゅふしゃ)といって、どんな人でも見捨てないで救うという仏さんなんですね。しかも、常に弱い人の側に立ち、弱い人から救っていく、まさにケアの化身のような仏さんです。そういう意味で、ケアの立場と浄土真宗には通じるところがあるので、そのことをもっと徹底していきたいと考えています。

 

人間の受動性を受け入れる宗教の利点

 

岡野 私は宗教のことはあまりよくわからないのですが、私が専門にしている西洋哲学も「人間とは何か」を考える点で、宗教と根っこは同じだと思うんですね。ですから哲学も、人間の生死、つまり人間の一回限りの生の意味をずっと考えてきたわけです。

ところが不思議なことに、哲学では「死」についての本はたくさん書かれているのに、「生」、つまり生まれることについての本は非常に少ない。それはやはり、人間は誰でも女性の体から生まれてくるのに、哲学は基本的に男性の営みでしたから、生まれるということにちゃんと向き合ってこなかったのではないかと考えています。

死ぬことと比べると、生まれることは誰しも自分でコントロールできないですよね。もちろん死だって完全にはコントロールできませんが、たぶん覚悟を決めて静かに死を迎えることぐらいはできる。それに対して、生まれることは完全に他人任せ、母親任せでしょう。そして、赤ちゃんは生まれてからもしばらくは自分自身をコントロールできず、養育者に依存しっぱなしですよね。

宗教のいいところは、そういう人間の受動性を受け入れる面があることだと思います。哲学は、何でも頭でコントロールしようとするので、基本的にマッチョです。ところが宗教は、自分をコントロールできない弱い存在としての人間を受け入れる。そこに宗教の可能性があると思います。私は、特定の宗教を信仰してはいませんが、何かしら人間にはできないことがあり、人間は神を超えられないと信じています。ですから、七尾さんがおっしゃるように、弱い人の立場に立ち、弱者にとっての救いを社会の中で見出すというのは、宗教の大切な役割だと思うのです。

ただ、宗教には女性差別的な側面がありますよね。例えばキリスト教では、女性は男性を誘惑したり、性欲をかきたてる悪しき存在と見なされてきました。仏教でも、修行者の性欲を断つために女性が遠ざけられ、女人禁制の場所がたくさんつくられてきたでしょう。

七尾 その通りです。真宗大谷派の教団でも、これまで女性は周辺に置かれることが多かったですし、女性は僧侶になれても住職になれない時代が長く続きました。そうした傾向を克服するために、現在も「男女両性で形づくる教団」を目指す取り組みが進められています。

 

高齢者が尊厳をもって生きられる社会へ

 

七尾 最後に、岡野さんにぜひお聞きしたいことがあるのですが…。ある門徒さんの家に月参りでうかがった時、その家のおばあさんが、「もう死にたい」と言われるんですね。「自分はもう役に立たんようになって、若い人に迷惑をかけるので、早く死にたいんです」と。

そのおばあさんは、先に亡くなったお連れ合いのいわゆる「後妻さん」として結婚し、自分の子は産まないで「先妻さん」の子どもを一生懸命育てられたのです。そしてお連れ合いが亡くなった後は仕事も頑張って、まさにケアに明け暮れるような生涯を送ってこられた方なんですね。そんなおばあさんに「死にたい」と言わせたものは何なのか。そしてその時に、僕は何と声をかけてあげればよかったのか…。そのことをずっと考えていまして。

岡野 難しいですね。高齢者の問題は、ケアの倫理の中でもいちばん大きな課題です。少子化という子どもに関する問題については、どんなに保守的な政治家であっても、何とかしなければいけないと言う。ところが高齢者については、本音の部分ではお荷物だと思われているような風潮があって、そのおばあさんの言葉の背景にもそんな社会の悪影響があるような気がします。その言葉をお聞きして、私もすごく悲しい気持ちになりました。

しかし、ケアの倫理からすると、誰もがみんな役に立って、何かに貢献できる社会なんて現実にあり得ないし、理想としてもそんな社会はぜんぜんよくないですよね。それは、役に立たない人を排除してしまう発想ですから。ですから、これからのよりよい社会の指標は、高齢者がどれだけ尊厳をもって生き永らえることができるかでしょう。本来、長生きすることは人間にとって喜びであるはずですから。

 

岡野八代 おかの やよ

1967年生まれ。同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。専攻は西洋政治思想、フェミニズム理論。主な著書に『シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判(増補版)』(白澤社)、『フェミニズムの政治学―ケアの倫理をグローバル社会へ』(みすず書房)、『戦争に抗する―ケアの倫理と平和の構想』(岩波書店)。訳書にエヴァ・キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』(共監訳、白澤社)、アイリス・ヤング『正義への責任』(共訳、岩波書店)、ケア・コレクティヴ『ケア宣言―相互依存の政治へ』(共訳、大月書店)などがある。

 

七尾真澄 ななお ますみ

1979年大阪生まれ。真宗大谷派大阪教区浄恩寺衆徒。帝京大学卒業後、大谷大学短期大学部の真宗大谷派教師資格取得コースにて教師資格を取得。僧侶の仕事をしながら4人の男の子を育てている。親鸞誕生850年の慶讃事業で、浄土三部経と正信偈を子どもたちに向けて現代語訳した『真宗児童聖典』の製作に携わる。