📗月刊誌『同朋』新連載:唯信鈔文意を読む―第1回
●山田 恵文(大谷大学非常勤講師)
第1回
はじめに
今号より、みなさんとともに親鸞聖人の著作である『唯信鈔文意』を学ぶこととなりました。
『唯信鈔文意』は、親鸞聖人が晩年に書かれた仮名聖教の一つです。
親鸞聖人の先輩である聖覚(1167~1235)に『唯信鈔』という書物があり、この書物に引用されている中国の先人や経典などの文章のこころ(文意)を解説した書物ですので、『唯信鈔文意』と名づけられています。
今回は、親鸞聖人の『唯信鈔文意』を学ぶにあたって、まず、聖覚と『唯信鈔』について学んでいきたいと思います。
聖覚と『唯信鈔』
聖覚は、親鸞聖人より6歳年長であり、天台宗の学僧でした。
延暦寺竹林院の里坊である安居院に住んでいたことから安居院の聖覚法印と呼ばれます。
説法第一と称される釈尊の弟子、富楼那に喩えられるほど、説法の名手として有名な方であったと伝えられています。
また、天台宗の僧侶でありつつ、法然上人の説く専修念仏の教えに深く帰依した人物でもあります。
法然上人の仏事の導師を勤めた時のこと、その表白文の中では、法然上人を「釈尊の使者」「善導の再誕」と仰ぎ、その教えを「弥陀の悲願に等しい」とも讃え、「教えの恩に報いるべき」と述べているように(「聖覚法印表白文」『真宗聖典』528〜530頁)、法然上人を大変尊敬していたことがうかがえます。
また、法然門下にはたくさんの弟子がいましたが、
念仏往生の義を正しく継承している人物として法然上人が聖覚の名を挙げていることより(『明義進行集』巻第三―七)、聖覚は法然上人から篤く信頼されていた人物であったことが知られます。
聖覚が『唯信鈔』を執筆したのは、55歳の時(親鸞聖人が49歳の時)でした。
これは法然上人の著作である『選択本願念仏集』(以下『選択集』)の啓蒙書と位置づけられる書物です。
『選択集』は漢文で書かれていますから、漢文の素養がない人は容易に理解することはできません。
聖覚は和文で分かりやすく、また巧みな比喩を用いながら、『選択集』の要義を解説し、念仏のこころが人々に伝わるようにと、この書を執筆されました。
また、この書には、聖覚自身による専修念仏の了解が表れているとも言えます。
それは、この書のタイトルに如実に見えるでしょう。
法然上人の説く「ただ念仏」(唯念仏)の教えの要を、「ただ信心」(唯信)として受け止めた書物であるということです。
法然上人は、あらゆる人々に対して、ただ一筋に念仏することを勧められましたが、それは信心が具わる念仏であるということ、そのことを聖覚は明らかにしていきます。
誓願の綱を取る
聖覚は、専修念仏の教えにおいては信心が要であることを、次のような喩えで教えています。
たとえば、ある人が高い崖の下にいて、自分の力で登ることができないとします。
その時に、力の強い人が崖の上からその人を助けようと綱を下ろして、これに掴まらせて引き上げようとします。
しかし、引く人の力を疑い、また綱が弱いのではないかと疑って、綱を手に取ろうとしないなら、その人は決して崖の上に登ることはできません。
ひとえに引く人の言葉にしたがって、手を伸ばして、綱を取ろうとすることでただちに登ることができるのです、と。
聖覚はこの喩えによって、助かろうとする者は、自分を助けようとする者の力と手だてとに全面的に身を委ねる決断をしなければ、そもそも助かることはないということを述べています。そして、次のように述べます。
仏力をうたがい、願力をたのまざる人は、
菩提のきしにのぼることかたし。
ただ信心のてをのべて、誓願のつなをとるべし。
仏力無窮なり、罪障深重のみをおもしとせず。
仏智無辺なり、散乱放逸のものをもすつることなし。
信心を要とす、そのほかをばかえりみざるなり。
(『真宗聖典』924頁)
(現代語訳)
阿弥陀仏の力を疑い、本願のはたらきをたのみとしない人は、さとりの彼岸にのぼることは難しい。
ただ信心の手を伸ばして、誓願の綱を取るがよい。
仏の力は窮まりが無いのであり、
罪障が深く重い身を重いとはしない。
阿弥陀仏の智慧は辺際が無いのであり、
心乱れ恣であるものも見捨てることはない。
信心を要とするのである。
その他のものを、顧みることはないのである。
阿弥陀仏はすべての人の平等の往生を願っています。
その願いの力を信じることを、先ほどの喩えを受けて、誓願の綱を取ることである、と巧みに表現します。
そして、専修念仏の教えにおいては、「信心を要とする」とさえ言います。
つまり法然上人の勧めた専修念仏とは、ただ称えさえすればよいということではなく、
信心の具わった念仏でなければならないのです。
ここに聖覚の念仏理解が見られます。阿弥陀の本願を信じて、念仏する。
この本願を信じる心の重要性に着目したのが聖覚であり、その法友(教えの上での友)である親鸞聖人でありました。
吉水時代の出来事
親鸞聖人と聖覚の念仏理解の共通性は、本願寺に伝わる親鸞聖人の伝記、『御伝鈔』に載る「信行両座」のエピソードに象徴的に描かれています。
それによると、親鸞聖人が法然上人のもとにおられた吉水時代のある時のこと、門弟たちの念仏理解を確かめてみたいと親鸞聖人は申し出ます。
そして、法然上人の門弟三百人あまりの前にて、信によって不退(さとりに至ることから退かないこと)を得るのか、念仏の行によって不退を得るのか、つまり、往生の正因は信心であるのか念仏の行であるのかという問いを出します。
それを聞いて、第一に「信不退」の座に着いた人物が聖覚と信空であり、遅れてやってきた法力が同じく「信不退」の座に着きます。
その後はもう誰も意見を述べる者がいなかったので、親鸞が「信不退」を取り、最後に法然上人が「信不退」の座に着いたとあります。
法然上人は日課七万遍の称名を行った(『法然上人行状絵図』第六)と伝えられるほどの人でしたから、
たくさん念仏する姿を日頃見ていたほとんどの門弟は、念仏の行によって不退を得るということに疑いがなく、そもそも親鸞聖人の問い自体が理解できなかったと想像できます。
その中で、親鸞聖人と聖覚を含むわずか数名の門弟が「信不退」を選び、法然上人と同じ念仏理解を持っていたということが描かれているのです。
想像される二人の交流
『御伝鈔』は本願寺第三代の覚如の手による親鸞聖人の伝記であり、そこには、親鸞聖人こそ法然上人の法統を継ぐ弟子であったと伝えようとする意図があることを考慮しなければなりません。
しかしながら、親鸞聖人の言葉をうかがうと、たとえば『歎異抄』(第一条)には、
弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。
ただ信心を要とすとしるべし。
(『真宗聖典』626頁)
(現代語訳)
阿弥陀仏の本願においては、
老人も若者も善人も悪人もおえらびになりません。
私たちにおいては、
ただ本願を信じる心だけが要であると知るべきなのです。
というように、先の『唯信鈔』と全く同じ言葉があります。
これだけでなく、親鸞聖人の著作の随所に、聖覚と関係する言葉が見られます。
この事実を踏まえると、吉水時代より親鸞聖人と聖覚とは念仏の教えについての見解を共有し、親しく交わった法友であったことは確かであったのではないかと思われます。
親鸞聖人は晩年、聖覚の『唯信鈔』を幾度も書写し、関東の門弟たちに読むことを勧めました。
そして、自らは『唯信鈔』に引かれた漢文の要文(要となる文章)の解説をした『唯信鈔文意』を執筆し、同じく関東の門弟たちに与えています。
次号では、その営為に込められた親鸞聖人の思いを尋ねてみたいと思います。
(註)『唯信鈔文意』『唯信鈔』の現代語訳は、『唯信鈔文意・唯信鈔 聞法テキスト②』(東本願寺出版)を使用しています。